文章を書きたい

雑感

今日は天皇誕生日。同級生の女性にこの日が誕生日の人がいる。
「そうなんよ。私の誕生日が天皇さんと同じだから、祝日になった」
以前の飲み会で彼女は目の前でこんな風に自分の誕生日のことを語ったことがあった。そういうことを思い出して一致日が始まった。

朝から岩出に行った。お邪魔したところへの道は狭かった。シエンタでも道がいっぱいいっぱいだと思った。
玄関先で、もう1台入ってきた車の人に「狭いですね」と言うと
「パッカー車も入ってくるんやで」と返事が返ってきた。驚いた。すごいねえ。
「帰りは別の道を行く方がいいですね」ということだったが、そちらの道も車にとっては狭かった。

人と話をするのは楽しい。その話が、琴線に触れるものであればあるほど。招き入れられた部屋には薪ストーブがあり、テーブルに向かう合うように置かれた背もたれのある木製の椅子はシンプルなのに回転椅子だった。ゴツゴツしていない感じがよかった。

お昼になったので、Gステーキに立ち寄って180グラムのステーキで昼食を採った。ランプ肉で注文したのに、店内表示では赤身の肉に変更していますとあった。前に食べたときよりもパサパサ感があったのは、部位が違ったからだろう。うーん、残念。
駐車場を出て備前の交差点を越えてさらに進むと、スターバックスの手前にスイーツの専門店がある。お店の前を通り過ぎ、次の信号でUターンしてその店に行った。店内にいたお客さんは1人で店はガラガラだった。
スイーツのお店にいた店員は男子2人。あれ、この店に女性の店員はいないんだ、と思ってしまった。さすがチェーン店だという感じがした。

コーヒーとアイスクリームを注文して、向田邦子さんの本を開いた。一話ずつ話を読んでいる。ゆっくりご飯を食べている感じ。ずいぶん昔になくなった方なのに、この人のエッセイの中では、今も向田邦子さんが生きている。息づかいを感じる。自分のことを上手にさらけ出す名人なんだと思う。エッセイが好きなのは、作家が自分をさらけ出しているところにある。赤裸々に書けばいいということではない。露出の仕方が絶妙だということだろう。

作家でない人は、自分をさらけ出さない。「ちょっと気取って書け」と書いた丸谷才一さんの文章読本は、卓見だったと今も思っているが、ちょっと気取って書くこととさらけ出すことは相反しない。澄み切った文章と赤裸々にさらけ出すことは共存する。おそらくちょっと気取ることと赤裸々な感じがハーモニーを奏でるようになれば、文章に艶が出るのではないだろうか。

和歌山県知事の仁坂さんという方は、話し言葉のような文章を書く人だ。官僚だったのでカチコチの文章もずいぶん書いてきた人だと思うので、あえて県民向けに書く文章は話し言葉のまま書こうとしているのだと思われる。ぼくが読んでいるのは「県民の友」と新型コロナウイルス感染症に対する県の取り組み。しかし、文章に艶はない。エッセイを書くわけではないのだから、あれでいいのかもしれないが、「この人のように文章を書きたい」とはならない。

向田邦子さんの瀬戸物選びの話を読んだり、鹿児島で同級生と恩師に会う話を読むと、印象がずーっと尾を引いていく。本を閉じても向田邦子さんが心の中で映像を結ぶ。
「ぼくも文章を書きたい」
そういう気持ちが湧いてくる。

雑感

Posted by 東芝 弘明