レッドクロス
『レッドクロス』
第一夜と第二夜を見ました。
日本赤十字の従軍看護婦の天野希代の戦争に翻弄された人生を描くことで、第2次世界大戦に至る日本の戦争とその後の中国革命、朝鮮戦争までを描いた希有な作品でした。
病気の母を看護してくれた看護婦に憧れ、小さい頃から看護婦を夢見て勉強に励んでいた希代は、地主の男の子に嫉妬され嫌がらせを受けます。「女のくせに」と言われ、「橋から飛び降りる勇気もないやろ」とからかわれた希代は、橋の上から川に飛び降りて気を失い、中国人の農夫に命を助けられます。中国人として差別され、白い目で見られていたこの農夫に対し、希代のじっちゃんは誠実な接し方をします。
看護婦になるということと命を救ってくれた中国人との出会いが、希代の原点になりました。やがて赤十字の看護学校に進学し看護婦になった希代は、赤十字の精神である「敵も味方も分け隔てなく治療する」という姿勢を貫こうとします。この生きる姿勢が、そのまま作品全体を貫くテーマになっていました。
女性にも赤紙が届き従軍した人々がいた。それが看護婦でした。召集令状を受け取った希代は満州に着任します。
しかし、満州では「敵も味方も分け隔てなく治療する」ことは許されませんでした。「戦場には理想なんてない」と言ったじっちゃんの言葉が希代に重くのしかかりました。
作品は、関東軍が、中国人に対ししていたこと、日本の侵略戦争のひどさを克明に描きました。開拓農民と中国人の関係もリアルに描かれました。希代は、任務を終えて帰国したとき、従軍看護婦の現実に打ちのめされ、もう看護婦には戻れないという思いをもちながらも、もう一度満州に行きたいと決意していました。
満州の開拓団には、中国人と日本人を分け隔てなく大切にして生きている中川亘がいました。希代は亘の妻として満州にある北端の地域の駅のホームに降り立ちました。ホームには中川一家が待っていました。
「よろしくお願いします」
これが希代と亘の結婚の挨拶でした。
亘との結婚生活の数年間が、希代にとって最も心落ち着いた数年間になり、亘との間に博人が生まれます。博人が破傷風にかかったとき、傷病兵の手当を手伝ったことをきっかけに希代は従軍看護婦の仕事に戻ります。博人は自分の命を救ってくれた先生に感謝し、将来は医者になりたいという夢を持つようになります。
ここから、希代にはそれまでの体験を遙かに上回る過酷な運命が待っていました。
ときは、太平洋戦争の末期に至る時期でした。
この作品は、中国に対する日本人の感情が悪化している状況のもとで、中国人と日本人の交流を正面から描いたものになっています。日本人と中国人の深い心の通いあった交流を描いています。ひるまずに中国人の姿をリアルに描いたこの作品には深い確信と勇気があると思いました。
韓国にしても中国にしても、日本にとって一番近い外国です。これらの国々と日本は、深い交流を重ねてきた歴史があり、戦前は日本の過酷な侵略によって翻弄された歴史をもっています。この作品を見ながらぼくは、これらの国々の人々とこそ、友好関係を深めるべきだと思いました。
中国には、日本に言語に絶するような侵略を受けながらも、多くの残留日本人孤児を引き取り育ててくれた多くの人々がいます。中国人の優しさがきちんと描かれたところに胸が熱くなりました。
満州の開拓村から召集された夫の亘は、手足を吹き飛ばされ、虫の息の状態で病院に運ばれてきます。希代は、誰か分からないまま亘を担架に乗せ、病棟に運ぼうとします。そのときに自分の名を呼ぶ声に振り向いて、担架の手足のない男が亘であることを知ります。希代の腕の中で亘は息を引き取りました。
夫を火葬し遺骨を持って開拓村に戻った希代が直面したのは、ソ連軍による襲撃でした。満州の国境を越えてきたソ連軍によって、亘の兄夫婦はソ連兵に殺害されます。まだ7歳ぐらいの博人は、従兄で年上の大地と一緒に村人に連れられて満州鉄道の駅まで逃げました。この駅で希代と博人は再会しますが、汽車に乗った博人の手とホームの群衆の中にいた希代の手は、走り去る汽車によって無残にも引き離されてしまいます。その直後に関東軍は自らこの駅を爆破しました。ソ連の追撃を引き離すための爆破によって、駅のホームにいたほとんどの人が殺されてしまいます。関東軍は、仲間であるはずの日本人の命さえ平気で奪うような作戦を実行したのです。希代は、崩れ去る駅のホームの中で、一緒に駅に駆けつけてくれた中国人にかばわれて一命をとりとめます。希代をかばった中国人の男性は、背中に木材が突き刺さって亡くなってしまいました。
作品では、ソ連軍の侵攻が実に野蛮だったことが描かれ、ソ連軍に変わって入ってきた中国共産党軍が、従軍していた医療団(医師と看護婦)に対し、敬意を払い尊敬の念を持って接したことも描かれていました。しかし同時に中国共産党の「革命思想」の機械論的で偏狭な姿も描かれていました。中国人を解放した中国共産党には積極的な面とともに階級敵と断定した人間を粛正するという怖さがあり、それらをきちんと描いています。戦後も中国共産党軍は、日本の医療団を帰国させず、共産党の医療団として仕事に従事させ、中国国民党との内乱に利用しました。中国革命の勝利も描かれ、その翌年に勃発した朝鮮戦争も描かれていました。
博人は、従兄の大地と行動をともにします。母と約束をした場所で希代を待つ2人は、約束の日が過ぎて25日経っても来ないので、もう一度自分たちの生まれ育った開拓村を目指します。旅立ったその直後に希代はようやくその場所にたどり着きます。
大地は、幼い博人が納得するまで博人に付き合いました。北に向かっている時に2人は川の中に倒れている中国人の男の人を助けます。この人は大きな屋敷に住む地主でした。彼は2人を命の恩人だといい、「中国人として生きないか、私の息子にならないか」と2人を説得します。
それからも波瀾に満ちた運命が2人を襲います。
中国は、第2次世界大戦後、中国共産党と中国国民党の内乱になり、1949年10月、共産党の勝利によって中華人民共和国が成立します。中国共産党が率いる中華人民共和国は、大地主などを粛正し、博人と大地の父になった地主を逮捕し、銃殺刑にしてしまいます。この事件によって博人と大地は屋敷を出て、中国大陸を南に向かって彷徨うことになります。希代は、博人が住んでいた屋敷を突き止め、駆けつけますが、その時はすでに地主が処刑され、2人はどこに行ったか分からない状態でした。
放浪の末に博人と大地は、一人の女性に「腹一杯食べさせてやる。働き手が足りない」と言われ、騙されて連れて行かれて他の子どもたちと一緒に奴隷のように働かされます。そこであるときに中国人たちの怒りをかい、二人は逃げようとしますが、博人を逃がそうとする中で大地は中国人たちに釜で斬り殺されてしまいます。大地は、年下の博人を最後まで守る男の子でした。
希代たち日本人医療団は、戦争が終わってからも中国共産党の解放軍の中で中国の医療団・共産党の同志として内乱で負傷する兵士の手当に従事させられます。1950年から朝鮮戦争が始まると、日本人医療団は、中国共産党の義勇団として北朝鮮の戦場に赴かされ、そこで医療団として負傷兵の治療を行います。この最中に突然日本に帰る命令が出て、希代たちはようやく日本に帰国します。
戦争が終わって8年が経過していました。日本に帰ってきた希代は、じっちゃんと再会しますが、息子に会いたいという一心で再び赤十字の看護婦として仕事に就きます。
一方、博人は、過酷な運命の中で中国共産党の人民解放軍の戦士になっていました。中国共産党の人民解放軍の一員として、中国人名を名乗った博人は、義勇兵として北朝鮮に行きます。日本人として軍隊の中でも迫害を受けながらも、博人は次第に医療に従事するようになり、軍医の助手として仕事をするようになっていました。しかし、博人は戦場で負傷し韓国軍の捕虜なり、国連の機関が置かれていた福岡県に移送されます。運ばれた国連管理の病院には、希代がいました。
戦争によって引き裂かれた母と子は、朝鮮戦争の中でようやく再会を果たすことができました。捕虜の息子と母との再会が、ラストで描かれています。このシーンを書くのはもったいないですね。戦争によって引き離された母と子が、再開を果たすまでを描いたこの作品は、日本とソ連、中国の姿を克明に描きながら戦争とは何かを問いかけました。
戦後70年。あの戦争の上にこの平和がある。平和を守るためにこの作品は放映されたのだと思います。
戦争は何もかも破壊し、最愛の人をむごたらしく奪い去りました。その中で「敵も味方もない。負傷した人はすべて助けます」という精神を貫こうとした希代の姿は、ひと筋の希望でした。
敵も味方もない。負傷した人はすべて助けます。
これは博愛精神ではありません。実際の行為にこそ意味があります。この生き方を胸に刻みたいと思いました。









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