通夜の席
台風が直撃するというので心配になってきた。夕方もまだ風は穏やかだった。6時から行われたお通夜に参加した。亡くなられたのは同級生の旦那さんのお母さんだった。参列した同級生の女性は「いくつになっても親の死は悲しい」と言った。数年前に自身の母を亡くした彼女の言葉には、彼女の母親の姿が重なっていた。
人生は短い。子育てが終わり子どもが家庭を持つ親の世代になると、自分の老いが隣にやってくる。順番。ところてんのように押し出される感じ。でも、まだいかほどのこともしていないとも思う。
「読んでいない本がこんなにたくさんあるんですよ」
死神が横に立って話しかけてきたら、そういう風に言いたい気もする。
「多くの映画ファンが最高の映画だと言った『天井桟敷の人々』も見ていないし」
そう言うと、死神は、「ビデオを録画したのを知っているんですよ。でもあなたは最初の部分をちょこっと見て、見るのを止めたでしょ」と言い返されそうだ。
「いまはまだいいか」という気持ちになるのは、「まだ時間はある」と思っているからだろうか。
通夜の後、同級生たち数人と残って話をしていると、夫婦が入れ替わるように話しかけてくださった。旦那さんは今年の4月以降、退職されて自宅にいる時間ができたので、親子の良い時間を過ごせたようだ。お母さんは安心して穏やかな日々を過ごし、次第に命の灯を小さくしていったような感じを受けた。
セレモニーホールの外に出ても雨はほんの少し降っていただけだった。
自宅に戻っても雨戸は閉めなかった。
天井桟敷の人々ですか。懐かしいなあ。マルセル カルネですよね。大昔観たな。天文館のスカラ座で観た。長丁場の映画なのでインターミッションがあった様に記憶している。当時はそんなに凄い映画という印象は無かった。つまり、名作中の名作という印象がなかったのだ。
本もまだ読んでいないものがいっぱいある。死ぬまでにあとどれぐらいの本があるのか。時間はあるのか。例えばトルストイの「戦争と平和」なんていう作品は書棚にあるにはあるのだがなかなか読み進めない。本を開いてさあ、読むかとなって、余りの難解さに辟易するのだ。この小説は登場人物が5〜6百人出てくる事で有名だ。もう、何が何だか訳が分からん。と言う事になる。トルストイは読者に苦痛を与える為に書いたのかと思えてくる。マルセル プルーストの「失われし時を求めて」なんていう小説も読者に苦痛を与える為に書いたのか、という代物だが世界一の名作という事になっている。なっているので俺は自分を叱咤激励して一応読み通した。訳者が悪かったのか自分が悪かったのか、なんの感動もなかった。
俺も残された時間が少なくなってきた。読みたい本がいっぱいあるのにどうしようという気持ちだ。
そう言えば東芝さんは、「坂の上の雲」も書棚に死蔵されており、読んだら感想を此処に書くと表明して居られましたが、どうなったのでしょうか。
失われし時を求めて は失われた時を求めて であった。失われし時を求めて は井上ひさしの「吉里吉里人」の中に出て来るギャグであった。俺は本の読み過ぎで記憶が滅茶苦茶である。
まあ、本を読む事は楽しい事の方が多いのだがそれは本からカタルシスを得た場合だな。これに尽きる。
まだ『死蔵』中です。