かつらぎ民報作成で考えたこと
木曜日の会議にかつらぎ民報の原稿を提出すると、「選挙結果も載せよう」という提案があって、記事をかなり削って選挙結果を載せることにし、一般質問の原稿も一段以上削ることにした。紙面でいえば、2つ以上の記事にした方がレイアウトがよくなる。1本の記事でまとめるのであれば、囲みも作って紙面が多角的になるよう工夫をした方がいいと感じた。一般質問でも、囲み記事も配置して背景を説明したり、感想を載せたりした方が面白い。
議会だよりでは、住民とのキャッチボールを大切にしている。かつらぎ民報も住民の声を載せる努力をして楽しい紙面になるよう工夫したい。読者ニュース「清流」も、読んで楽しくなるような工夫をしたいと思い始めた。
人は人とつながって人生を豊かにする。新しい出会いも面白いし、同じ人と深い話をするのも面白い。日本共産党は、いろいろな人との交流を広げて、深く人々の中に入っていく努力をすべきなんだろうなと思う。
1980年代に入って、国会では「日本共産党を除く」という状況がずっと続き、あたかも日本共産党が国民からかけ離れているかのように扱われ、地域でも職場でも押し込められてきた。それが党員の中にも根を張っていて、新しい人々の中に大胆に入ることに対して「臆病」になっているようなところがある。
こういう「臆病」さを取り除く仕事も議員が担うことも必要だろう。
和歌山県の現状の根底には、財界・大企業中心、アメリカ中心の政治が色濃く影響を与えている。大切なことは目に見えない。目に見えない力によって、政治と経済が動かされ、それによって和歌山のような地方が疲弊してきている。しかし、ここから地域を再生していくために必要なのは、まずもって「批判」ではない。必要なのは、この現状をどうすれば改善できるかという知恵と努力だ。自民党にしても日本共産党にしても、この和歌山の現実と向き合う必要がある。目の前の同じ「危機」──地域の衰退と人口減少、過疎化、少子化に向き合わなければならない。これらの問題は、解決すべき課題を含んでいる。高齢化に必要なのは対策・対応であって克服すべき課題ではない。
どうやって、この危機的な現実に向き合って、活性化を図るべきなのか。問われているのはこういう問題だ。今までの自民党政治を批判して、害悪を取り除いたとしても、残るのは深刻な現実だ。この現実はなかなか手強い。自民党政治は、この現実に対して、まともに向き合ってきたんだろうか。批判すべき点があるとすれば、ここだろう。地域の現実を生み出した政治にそ知らん顔をして、対策もまともに講じない点は大いに批判されるべきだろう。しかし、そこから対策を導き出したとしても、それだけでは現実は大きく変わらない。
人との交流に話を戻そう。相手の懐に入って信頼されるためには、まずこちらが心を開く必要がある。こちらが心を開いているかどうかは相手に伝わる。相手の話をじっくり聞かせてもらうことは楽しい。こういう姿勢で人に会いたい。



