大統領の怖さ

雑感

京都の古参の共産党員の方が書いた本を読んだ。違和感を覚えるような書き方が多かった。一番の印象は、日本共産党の解党論にまで行き着く危うさをもっているなと感じた。とくに2015年以降の野党共闘に対し言及もほとんどないので、保守的な政党との間で、一致点による共同と政権を目指してきた運動についての不理解と不確信があるなと感じた。
そうなっている根源は、資本主義の本質に関わる理解にあると感じた。ただ、松竹さんの本よりは面白かった。

日本共産党は、2000年に党規約を改正して、それまでの組織の運営方針を大きく変化させた。その内容は民主と集中に関わるものだったが、とりわけ民主主義に重点を置くものだった。
党規約の精神は、党内に息づいてはいるが、1960年代から2000年にいたる期間に活動してきた党員の中には、昔の活動スタイルが染みこんでいる人が多い。集中に力点があった時代の党活動は、今以上に戦闘的だったが、方針を貫徹するという点で「下級は上級に従い」とか「方針は無条件に全面的に実践する」とか、「上級機関の決定が最終的には物事を決める」という形だった。この弊害が、まだ強く残っていることを感じる。それは、多くの行き過ぎを生み出し、不幸をも生み出した。

最近は、日本共産党の規約を学ぶことの重要性を感じている。党規約の重要性は、2015年以降の野党共闘の中でより一層活動によって深まってきたのだと思っている。この組織運営の原則があれば、党内に分派が生まれることはないし、民主的な議論は保障されると思っている。

党首の公選制には、賛同できない。それは地方自治に関わってきたなかで日本の首長の権限の大きさと、この制度によって独裁的な傾向が強まらざるを得ないことに向き合ってきたので、大統領という仕組みの怖さを知っているからだ。
党首を党員の投票による直接選挙にすると、どうしても個人に対して一定の権限の付与を考えざるを得ない。それは、党員に直接選ばれた者の役割にもなる。もし、現行の党の役職を踏襲するというのであれば、直接選挙で選ぶ意味はなくなる。現行の役割のみだとすれば、党首選挙はいわばセレモニー的な意味しかもたないだろう。
党首を直接選挙で選べば、いわばその大統領による人事権、指導部の任命という問題が出てくる。任命の権限をもたない大統領なんていない。独任制の大統領という仕組みと一定の権限はセットだろう。

これを実現するためには、党規約の変更とともに、権限の付与という問題が発生する。それは、日本共産党の組織の在り方、全ての党員は規約の下に平等だということと矛盾する。現在の規約は、党員は同じ権利と義務を負い、党の任務は単なる役割分担にすぎないという考え方で成り立っている。志位委員長は、幹部会委員の長という役職なので、中央委員会の長でもない。こういう限定的な役割のもとで日本共産党は組織を運営している。組織と幹部は重層的に責任を果たす仕組みが成り立っている。この仕組みは基本的にいいと思っている。

情報化時代の中で党首の果たす役割や影響力は大きい。しかし、それぞれの地方の党組織が発展するかどうかは、その地域で日本共産党を代表している人々の努力にかかっている。党首の在り方が党の発展を大きく左右するような組織になる方が、問題点が多いと思う。

独任制の責任者が選挙で選ばれる仕組みが、民主主義的なのかどうかは、もっと検討が必要だ。日本の地方自治体のような、化け物のような権限を一人の人間に与えている仕組みは、権限の分散という課題を抱えている。チェック機能については、議会がその役割を担っているが、全ての意思決定が議会を通過するわけではないので、日本の地方自治体のチェック機能は、かなり限定的になっている。首長が暴走したら住民も議会も、暴走をなかなか止められない。

政党の党首の選び方とその党内の権限でいえば、自民党総裁は、自民党内で選ばれているのに、小選挙区制と政党助成金、内閣官房と内閣府という仕組みを作り上げたことによって、化け物のような権力の集中に至っている。アメリカの大統領よりも議院内閣制の方がいいかなと思ってきたが、悪法の推進という点では、日本の方がはるかに悪法を推進する仕組みができている。重要な意思決定の多くを閣議決定によってすすめ、そこに歯止めがかからない日本のシステムは、考え直すべきところまで来ている。
小選挙区制の廃止が改革への第一歩になる。

雑感

Posted by 東芝 弘明