藤井幹雄さんを偲ぶ会
午後5時からかつらぎ夏まつりの駐車場係を2時間半近くさせていただいた。勤労者会は必ずこのボランティアをさせていただいている。4年ぶりの花火は、人々の注目を集め駐車場は7時を過ぎると一杯になり、置き場所のない車が右往左往する状態になった。「こういうことになるよね」と思っていたので、心苦しかった。花火は、妻を祭りの会場に送り、ぼくは河南の広域農道に登って、下から打ち上げられ、同じような高さまで上る花火を見ていた。多くの車が道に止まって花火を見ていた。
9時5分前に終わって、妻を乗せて自宅に帰ると10時だった。交通渋滞もかなりのものだった。
このかつらぎ夏まつりの前に、偲ぶ会が和歌山市のホテルアバローム紀の国で開かれた。
「平和・憲法・人権そして沖縄を愛した藤井幹雄さんを偲ぶ会」だった。ぼくは、藤井君と交流の深かった地元の議員として出席した。和歌山の弁護士のみなさんや関係の深かった方々が中心になって開いたものだった。岸本周平知事も最初から最後まで出席されていた。地元の藤井君を知る日本共産党の議員としてスピーチを依頼され、スピーチコーナーで5人のうちの1人としてお話をさせていただいた。
正義感の強い、家族思いの藤井君の人柄が、主催者のあいさつや知事と弁護士のあいさつ、スピーチをした人のお話で立体的に語られた。山口百恵さんが大好きで、多くの人が知らないシングル盤のB面の歌を歌えると自慢していた藤井君、水泳連盟の顧問弁護士で、トライアスロンを愛し、沖縄で弁護士活動を始めたことによって、宮古島でのトライアスロンをこよなく愛して、多くの人と交流し自分の思いをまっすぐに貫いて生きていた人だった。
ぼくと1年違いの彼は、ぼくと同じ歳の34歳で結婚したことを経歴の中で知った。だから同じような時期に子どもがいたということだった。ぼくと藤井君の子どもは私立の聖心幼稚園に子どもを預け、彼はぼくより少し前に保護者会長を務めていた。園の行事で藤井君の奥さんとも知り合いになり、2007年、総合型地域スポーツクラブの立ち上げのために集まった人の中にぼくも藤井君もいた。その頃からよく会うようになり、話をするようになった。ぼくの娘がお稚児さんとして宝来山神社まで大和街道を歩いたときには、夫婦でぼくの娘の写真を撮りに来てくれた。
政治的に深く親しく付き合うようになったのは2015年9月19日、安保法制が参議院で強行採決されて以後、野党は共闘という国民の声に背中を押され、和歌山でもその気運が高まった中でのことだった。
藤井君の存在が大きかった。野党は共闘という機運を具体的に形にするため、多くの人が和歌山で努力をした。2019年の参議院選挙で藤井君は無所属で立候補したが、形は野党共闘だった。かつらぎ総合文化会館の演説会では、ぼくもあいさつをする話になっていたが、紆余曲折があってそれは叶わなかった。しかし、気持ちよく藤井君の選挙を一緒におこなって、お母さんの実家の近くの名手でおこなった共産党の演説会には、日頃日本共産党の演説会には来ない人々が参加してくれて、藤井君もあいさつをして、印象深い演説会になった。彼は、母親の実家の近くで演説会ができ、知り合いの方が多く集まってきてくれたことを喜んでいた。
2021年10月の総選挙で藤井君は立憲民主党の公認候補として選挙をたたかった。告示の8日前の10月11日、夕方の5時過ぎ、藤井君から電話をもらった。
「ようやく立憲民主党と日本共産党の合意が成立した。これで一緒にたたかえます」という報告だった。嬉しい報告だった。藤井君が突然亡くなったとき、ぼくはこの日の電話をありありと思い出した。この選挙では、かつらぎ町の街頭での演説会(かつらぎ町での出陣式)では、日本共産党の議員としてあいさつをさせていただいた。このときも一緒に選挙をたたかえることを喜んでいるというあいさつをさせていただいた。
藤井君がいたから組織と組織の長い歴史的な関係なども緩やかに乗りこえて、藤井候補のためにという形になったのだと思う。彼の存在なしには具体的には実現しなかったことだとも思われる。憲法9条を守るために9条ネットの共同代表になり、中村哲さんをお招きしての講演会が開かれたこともあった。立憲主義の回復という課題は、ますます大きな意味をもっている。43兆円の軍拡の中で日本が戦争に巻き込まれる機運が出てきている。この中で野党共闘の再編が求められている。
あいさつでぼくは、「日本共産党は今の政治を変えるためには野党共闘を実現させる以外に道はないと考えています」と言わせてもらった。藤井君の遺志を継いでさらに野党共闘を発展させなければならない。この和歌山で。ぼくはそう思っている。
藤井幹雄弁護士の正義感を受け継いでいく。
安らかにお眠りください。












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