時代を読み解く論理

雑感

史的唯物論と言っても何のことか分からない人が多いだろう。唯物論という哲学の考え方を歴史の分野で生かしたものだが、史的唯物論はむしろ、この論理が作られる過程によって、唯物論という哲学のものの見方が確立したのだという。言い方を変えれば、人間の歴史の研究及び、当時の現在の政治分析の中で唯物論が確立したということだ。それほど唯物論にとって、社会の歴史研究の意味は大きかった。つまり、唯物論と弁証法的なものの見方が確立したのちに、この理論を活用して人間の歴史を研究したということではないということだ。

唯物論は、人間の意識や人間の社会的意識の根源は客観的な物質にあると捉えてきた。今やこの考え方は脳科学の発展によって、より詳細に明らかになりつつある。人間の脳は、母体の子宮の中で胎児の皮膚がふれる子宮の壁から得られる刺激を通じて形成される。外界に対する能動的な反応によって、脳や意識が形成されていくことが、詳しく克明に明らかになりつつあり、この発達の仕組みをふまえれば、AIによって脳が作れる時代が来ることが予感されている。ペレットで培養された脳細胞が、外界からの刺激によって積極的に反応する仕組みを利用すると、この細胞はブロック崩しゲームを実行できることが明らかになっている。この技術が発展すれば、人間の作った細胞によって脳をつくることができる未来が見える。

物質の外界からの刺激による反応と脳の反応とは一つの線の上で起こってる。細胞や脳の発達によって人間の意識は生まれてくるのであって、最初に魂があって人間の意識ができるのではない。唯物論は、こういうことを明らかにしてきた。こうであるならば、人間の社会における意識も、人間の意識の外に客観的に存在している自然や社会的な諸関係によって生成されることになる。個人の意識が先にあって社会的関係がつくられるのではなくて、やはり人間の社会的意識も社会的関係による反映がその根底にあるということになる。

もちろん、個人は自由な意思を持っている。外界からの反応を積極的に受け入れ、その刺激によって形成されてきた意識は、ある段階になると自我をもつようになる。我思う故に我あり。その人間がその人間であり続けるのは、形成された自我が維持されることによってのみ、自分は自分を確認できる。その人が自我を失ったら、もはや自分を維持し続けるのは難しい。

しかし、自我は生まれたときから備わっているのではない。それは成長という歴史的過程の中で生成してきたものだ。このことを見失うと大きな間違いに陥る。自我を突き詰めていくと「はっきりしない」問題にたどり着く。自分の意思や意識というものは、鉛筆の芯のように黒く堅いというものではない。自分の殻に閉じこもって自分を徹底的に見つめていくと、かなり曖昧なものにしかであわない。自分の自我というものは、結局は細胞の発達として目覚めた自我というものでしかない。その中心にあるのは無意識のうちから始まる反応だ。

人間は社会を形成している。人間の社会は複雑にできている。東京などの都会では、街ゆく人に人は反応を強く示さない。それは外界からの刺激があまりにも大きく強いので、情報が入ってくるのを無意識で拒否しているかららしい。そういう風に意識が働いたとしても、人間は無意識のうちに多くの刺激にさらされ、反応し続けている。このようにして形成される社会的意識の中には、その時代による刻印のようなものがある。

第二次世界大戦後、人類に向かって真っ先に発せられたのは世界人権宣言だった。これは人権に対する先駆的な宣言だった。この宣言は、第二次世界大戦という多大な犠牲の上で生成されたものだ。この人権宣言には、人類の苦難の歴史が刻まれている。いま世界ではジェンダー平等への大きな波と、何世紀にもわたってきた植民地支配への反省という巨大なウエーブが起こっている。同時に未来の危機である地球温暖化に対して、これを止めようという巨大な流れも生まれつつある。
人間はこのような時代の動きの中で大きな影響を受けていく。もちろん、そういうことを全く感じないで生きている人も多い。しかし、この大きな波をまったく拒否して生きていくのも難しい。人間の意識は社会的な関係を反映して形成されていく。社会的な意識は社会的な存在によって、大きな影響を受ける。ただ、多くの個性的な反応や千差万別とも思われるような解釈が生まれてくるのは、外界からの刺激に対する反応の仕方が、千差万別だからに他ならない。

マルクスとエンゲルスは、こういうものの見方、考え方をもったなかで、人間の社会をより根底から突き動かしているのは、人間の意識ではなくて、社会の経済活動にあることを見抜いてきた。その中でマルクスは、資本主義経済の運動法則を徹底的に明らかにしようと研究をおこなった。この研究は、人間社会が結局はどんな力によって動かされていくのかを明らかにするものだった。資本論によるマルクスの研究は、マルクス、エンゲルスの史的唯物論という理論を形成する大きな力になった。

政治や宗教や芸術や文化等々は、経済的な社会的土台の上にたつ上部構造を形成しており、この上部構造は、経済的な社会構造の反映という側面が強い。しかし同時に、そうやってできた上部構造が、経済的な人間関係に大きな影響を与え、下部構造である経済や経済的な仕組み、経済的な人間関係に大きな作用を及ぼすことも明らかにした。
史的唯物論は、歴史を裁断する型紙ではない。こういう社会構造の仕組みを理解した上で、実際の社会がどう動いているのかという分析においては、極めて柔軟に物事を把握し、社会情勢の分析を行うことになる。

英雄が現れて時代を動かすのではない。もちろん、時代の中で個人が果たす役割は決して小さくはない。しかし、こういう人物がこういう仕事をしたので歴史が動いたというのではない。それは現在の社会の中での内閣総理大臣のことを考えれば、見えてくるだろう。安倍さんがさまざまな役割を果たしたのは間違いないが、安倍さんが日本を動かしていたとは見えないだろう。同時代に生きていると、権力者が影響を与えていないことがいかに多いかを、同時代の中で日々確認できる。
しかし、時代小説やドラマになると、あたかも英雄の行動によって歴史が大きく動いたかのように描かれる。その時代の経済を描き、その中で人間がどう生きていたのかを描きながら時代を描いていることは少ない。
靖国派と呼ばれ、日本会議という組織や統一教会の影響や、歴史修正主義という動きが安倍さんの元にあって、日本を戦前と同じ方向へ動かそうという動きは、安倍さんの個性を超える大きな「勢力」としての動きがある。日本補選前のような国に戻そうとする動きと、アメリカの引き起こす戦争への動きには思惑の違いがあるのに、同じ方向を向くベクトルの中にある。アメリカとの利害の一の中での憲法改正をめぐる動きと執念は、新自由主義的な改革だった中曽根内閣とつながっている。
日本の新自由主義は、資本による徹底的な利潤の追求という動きと戦前への復古主義、国民主権の否定、恒久平和主義への否定、基本的人権の否定の動きとの関係で親和性がある。親和性の根底には、一方の極への富の集中と蓄積、もう一方の極への貧困の蓄積による民主主義の否定とつながっている。
戦争準備という反動的な動きが強まってきた根底には、資本主義の搾取の強まりと格差と貧困の拡大がある。ほんのわずかな一握りの超富裕層が、自分たちの利益を上げるために政治が最大限利用されている。新自由主義による資本の蓄積が、格差と貧困を広げ、一方の側に富を集中させてきた中で世界が不安定になっている。
この流れの中で、安倍さんがという個性が大きな役割を果たし、右翼的な傾向が強まった。歴史の中には、さまざまな勢力の動きがあり、流れの違うベクトルが反発したり、入り交じったり、共鳴したり、力が合わさったりしてうごめいている。そういう中で誰が歴史の表舞台に躍り出て脚光をあびるのか。そこに生きた政治のダイナミズムがある。

日本の地方自治体における首長の権限は極めて大きい。ぼくの住むかつらぎ町でいえば、最も地域に大きな影響を与えているのはかつらぎ町という自治体組織であるのは間違いない。しかし、この組織の外に農業があり商工業や医療、福祉の仕組みがある。いろいろな会社や個人商店があり、それらによって地域の経済力が形成されている。この中に地域住民の生活がある。
分かりやすい地域は、巨大な企業が存在する地域だろう。こういう地域に行くと地方自治体の影響力は相対的に小さくなる。地域の分析と言っても、巨大な企業のある地域とない地域では、自ずから分析に視点が違ってくる。

ぼくの住むかつらぎ町は、巨大な企業による城下町は形成されていないので、主要産業の分析とともに、最も影響を与えている地方自治体の分析が重要な意味をもつ。地方自治体の分析の出発は、首長がどういう施策を講じているのか、首長の性格も含めて分析することが大事な意味をもつ。それは、たった一人の個人に圧倒的に権限が集中しているので、個人の果たす役割が社会的に大きな影響力をもつからに他ならない。

住民運動が世の中を大きく動かすのは、主権者に選挙権があり、その主権者を中心とした運動が世論を形成し、大きな影響力を与えるからだ。経済的な位置の違いによって階級が形成されているので、支配されている位置にある国民の運動が、支配している位置にある人々にすべて見えているわけではない。支配される側は支配している側の人間関係や動きの多くを知らないし、理解できない。

資本主義社会のもとでは、人間と人間が階級に分裂している中で分断されている。分断の中で支配者の生き方と多くの国民の生き方は大きく分裂している。支配者の側に競争の中でのし上がって行く人々は、支配者が身につけている文化を学び、真似をし、支配者の側が身につけているものに興味を持って、自分たちをその文化の中に溶け込ませている。
自民党の政治家が、庶民とは全く違う金銭感覚をもち、庶民の暮らしを理解できないように見えるのは、政治家たちが世間に晒されている存在だからだ。人間としての動きが閉じられていないので、国民は、政治家の動きや姿を通じて、かけ離れた世界に生きている人々であることを垣間見ることができる。今、国民の目の前で暴露されつつあるパーティ券のキックバックの姿は、いかにお金の扱いとお金に対する意識が、庶民とかけ離れているのかを教えてくれる。こんな感覚を持った人間集団が、格差と貧困の中で苦しんでいる人々に対して寄り添うことはない。むしろ、そういう人々と自分たちがいかに違うかを日々確認しながら、生活していると言ってもいい。
「我々高級な人間集団とつきあいたいのであれば、既製品の背広など着るな。少なくとも一着30万円の服を着れ」
階級意識の中には、そういう文化が存在する。
東京に行くと、高級な人々は自分たちと一般人を区別し、一般人のことを「パンジー」と呼ぶ。和歌山県では県庁に勤めているような人は、少し生活水準の高い人々ということだが、東京では「パンジー」と呼ばれる。

このような社会の中で、国民は自由と民主主義を獲得してきた。その結果、自分の人生を自分で選び取ることのできる道も開かれてきた。資本主義社会の支配は、奴隷制社会のように、人間の生殺与奪の権限を支配層はもっていない。支配といっても支配者がコントロールできない部分がある。奴隷制、封建制、資本主義という歴史の変化・発展の中で、国民はかけがえのない権利を獲得し、自由を拡大してきた。今日の国民運動は、この自由獲得の上に立って行われているものであり、日本に生きる国民は、自分たちのたたかいによって、未来をより民主的で自由を拡大できる力をもつに至っている。

戦後の民主主義は、すべて国民の力で勝ち得たものだとは言い難いかも知れないが、戦前の命がけのたたかいというものも引き継いで今日がある。戦争を通じて日本国民が手に入れた恒久平和や憲法9条への意識は、歴史的に形成されてきたものであり、根底には膨大な人間の犠牲の上に培われた意識がある。同時に戦後の日本の民主主義には、日本国憲法を武器にしてたたかい取ってきた成果がある。たたかいによって国民の中に定着してきた成果がある。
日本国憲法をめぐるたたかいでは、戦後の民主主義が試されており、同時に敗戦によって決着がついていない戦前からの強い糸とのたたかいという側面をもっている。日本の権力を握ってきた勢力は、教育を通じて国民に権利を教えることを阻んできた。自分たちの力で政治や社会を変えることがでえきるということを教えない教育を重ねてきた。多くの人間が労働者になるのに、労働者になったときに行使できる権利さえ教えないで、社会に送り出すことが当たり前になっている。私たちはこういう社会に生きている。支配されてきた人間がたたかいによって勝ち取ってきた民主主義と自由は、国民の運動として次の世代に引き継がれなければならない。目覚めよ、若者。こういう働きかけが大事になっている。

階級闘争によって時代が切り開かれる。住民の中での運動と議会のなかの活動を結びつけて世の中を変える。こういう考え方で日本共産党は活動している。社会の動きを今日書いたことなどを念頭に置いて分析し、立体的に捉え直すのは面白い。


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雑感

Posted by 東芝 弘明