友だちと話をした後で

雑感

昼から時間休をとって同級生の友人に会った。気の置けない人と話をするのは楽しい。話を聞く。
友人は、不登校は学校が原因ではないと何度か強調した。そうかも知れないと感じた。学校よりも家庭の方が影響が大きいのは間違いないだろう。不登校の原因として家庭の問題を考えるのは大切だと思う。考えたのは「家庭のせい」の中に「社会」が潜んでいるのではないだろうかということだった。
家庭のせいだという問題のなかに潜んでいる社会問題を考えてみたい。1日は24時間。日本はこの中で労働時間が多くを占める。働かないと生活できないなか、家庭の中の自由な時間が大きく制限を受ける。家庭における自由時間が奪われていくと、親子の関係が歪んでくる。小さい頃から対話が少ないと、目に見えない形で人間の形成に影響が出る。

昨日このブログに子どもたちの中に「言葉の森」が形成されていない傾向を書いた。娘が大学時代の心理学を学んだ話の中に、「制限コード」の環境にある家庭と、「精密コード」の環境にある家庭の違いについての違いというものがあった。両親(それが同性であっても何の問題もない)が、込み入った話や内容の濃い話をする家庭(精密コード)で育った子どもは、自然な形で豊かな言葉を身につけていく傾向があり、それが生育に大きな影響を与える。逆に言葉のバリエーションの少ない家庭(制限コード)で育った子どもには豊かな言葉が身につかない傾向がある。親のこういう傾向は、なかなか改善できない。それが子どもに影響する。負のスパイラルを克服するのは難しいということだ。

両親がもつ言葉の豊かさや貧困さも、労働時間とのリンクがある。家庭から自由な時間が奪われると、さらに悪循環は拡大する。子育ての中で自然とテレビやスマホに子どもを「ゆだねる」と、子どもは長時間、情報の受動的に受ける生活環境の中で生きるようになる。小さい頃からこういう環境の中で生きると、その子どもの中に豊かな「言葉の森」が形成できず、概念がそのこの中で確立できなくなる。それは、人間と人間とのコミュニケーションの中で育つという環境まで壊すこととも深くつながっている。

そういう子どもたちにとって、学ぶ圧力の強い学校は、心の安らぐ居場所にはならない。学ぶ圧力は、ぼくたちの子ども時代とは大きく違う。今から50年以上前の学校の子どもたちは、学校に「遊び」に行き、その中で学んでいた。学校は子どもたちにとって夢中で遊べる楽しい場所だった。学びはその中に組み込まれていた。今の学校は、学びの中にあって、遊びはどれだけ残されているだろうか、という世界に置き換わっている。こういう学校が最悪だということではないと思うが、人間が豊かに育つ環境にない社会と家庭の中で、もやしのようにひょろひょろ育ってきた子どもたちが、「耐えられるか」というと、なかなかそうはならないのだと思う。

忙しい家庭の中で、自分たちの生活が何を子どもたちに生み出しているのかを、多くの人は知らないで生活している。不登校はこういう環境の中で起こっている。教育の現場が、家庭と社会が抱え込んでいるひずみやゆがみ(歪みや歪み[ひずみやゆがみ]、どちらも同じ漢字だ)を自覚して、そういうことを前提に教育を組織していれば、子どもたちは、それぞれの家庭や社会がもつひずみやゆがみを改善して、すべての子どもを伸ばすこともできるだろう。しかし、日本の学校教育は、こういうことを自覚できず、やっていることは、取締的な管理。この管理の下でのアクティブラーニングという「強制的」な学びが組織されているという皮肉がある。

子どもが人間として成長していない傾向があるのに、より一層、子どもを学校が追い込んでいる側面がある。教員を3倍か4倍ほど増やし、いっせい授業をやめ、子どもの到達点に応じて学びを組織していけば、課題を抱えている子どもたちも急速に成長すると思う。いっせい授業でない学習というのは、集団による指導への移行も意味する。困難を抱え込む子どもを成長させるためには、集団の検討によるアプローチを必要とするだろう。またそれは、コミュニケーション力が不足している子どもたちにとって、それを改善する力にもなると思われる。遊べる場所としての学校の復権も、この中で求められる。

話を聞いて、「さよなら、またね」と言ったあとで考えたことは、こういうことだった。


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雑感

Posted by 東芝 弘明