こんな記事を読んでいると病んでくる

雑感

紅白に対する歌の評価や司会者への意見など、読んでいると嫌になった。人間に対する評価や演技に対する評価が、上から目線で、芸能人の人格を否定しているという印象をもつ。「こんな記事を読んでいると病んでくる。人間として闇を抱えるのではないか」というのが一番強い印象だった。
芸能人に対する辛辣な悪罵のような評価は、対岸の火事ではない。そういう評価は、すぐに一般人にも向けられる。何か世間の注目を集めるような事件が起こると、肯定的な意見とともに、悪罵としか思えないような意見が集まってくる。芸能人への悪罵と一般人への悪罵は、一つの線の上に並んでいる。そこに境界線はない。芸能人への悪罵は、事件を起こして世間の注目を浴びると、一般人にも向けられる。

ぼくら素人は、舞台に立ったりカメラの前で演技することはほとんどない。でも、普通の人でも人前で話をしたり、プレゼンを求められたりすることはあるだろう。演技は、自分たちの生活ともつながっており、自分が演技することを想像して、演じてみたらどうなるかということを考えるべきだとぼくは思っている。
そういう当事者意識がなければ、作品を論じるべきではない。短いコメントでも評価は全て評論だろう。この評論というものは、演者に対するリスペクトを前提にして成り立っている。リスペクトがあってこそ評論は生命をもつ。良いにしても悪いにしても評論を行う行為は、作品や人物に対して、評価という名でメスを入れることだ。評論のもつメスのような力を忘れて、良い・悪いを評価するのは恐ろしい。

よい評論は、演者を励ますものだと思っている。不十分さを指摘する場合は、演者に対して気づきや改善を促すような建設的な精神が必要だと思う。演者は、演ずることによって新しいもの、価値あるものを生み出す努力をしている。これに対して評論も、新しいもの、価値あるものを生み出すものでなければならない。作品と同じ熱量で評論を行おうとする努力に評論の価値がある。
もちろん、言論の自由はあるので何を発言してもかまわないが、自分を匿名性の庇護の中において辛辣な意見を言うのは、何かが間違っている。何の配慮も優しさもない芸能人に対するコメントを読んでいると、「なんでこんな世の中になったのだろうか」という気持ちにさえなる。匿名のコメントはあっていいが、匿名であればなおさら、相手の人格を傷つけない配慮が求められる。

同時に、ひどい書き方をされる芸能人の人々は、よくこれで平常心を保って生きているなと思う。「気にしないで無視しているから大丈夫」なのかも知れない。しかし、自分が失敗や事件を起こすと、さまざまな角度からさらし者になって、評価の嵐に投げ込まれるので、平常心ではいられないのではないかと思う。

作品への評価や芸能人の演技に対する評価に関わる記事は、すべて編集作業の伴うもので、何らかのメディアが関わっている。インターネットのメディアが、芸能人への辛辣な短いコメントを集めて、さもそこに何か価値があるように記事を配信しているのを見ると、すごく嫌な気持ちになる。こういうメディアが、一般人の事件に対しても、牙をむいて襲いかかるのだ。記事の配信は経済活動であり、どれだけスポンサーがついてお金が入ってくるかが、配信している根底にある。だからこそ、辛辣な評価を集め、記事を配信しているメディアに問いたい。
「あなた方は、芸能人や一般人に対する辛辣な評価を、権力をもった政治的な人間に対して、同じようにしていますか。していれば、裏金を受け取った国会議員たちが、何の罪にも問われずに国会議員を続けられることは、ないんじゃないですか。政治的な圧力を感じても、経済界から干され、スポンサーから見放されても、書くべきことはあるんじゃないですか」

政治への不満を芸能人への悪罵で紛らわせたり、鬱憤を晴らしたりしても世の中は変わらない。むしろ世の中に闇を広げる病んだ力になる。


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雑感

Posted by 東芝 弘明