奥の院につながる道
この道を歩いていき、山の方に入って行くと父と母の眠る墓がある。ぼくはいつのまにか、父の年齢を追い越し、母の年齢を追い越してしまった。生きるというのは、毎日の日常の積み重ね。だからこそ、あらためて父と母の生きた時間の短さを感じる。
高野山の奥の院につながるこの道は、観光客の人々が歩く道でもあるが、日常の生活の延長にある道でもある。雪に包まれている冬、藪蚊が大量に発生する湿度の高い夏。そこにぼくたち家族の思いのかけらも落ちている。
母の命日であった2月14日、ぼくは、スーパーでお饅頭を買って仏壇に供えた。それから5日が経って52歳になった。母の歳を追い越した誕生日だった。
これだけの年齢を重ねても、母が感じ取っていたものをぼくは感じられているだろうか。
年齢を重ねても迷いは消えない。分別などできない。喜怒哀楽を味わいながら歳を重ねていく。でもそれがいい。それでいい。
定年退職後、余生という言葉に抗いたくて模索していた頃、一人で何度もこの奥の院に続く参道を歩きました。ここしばらくはご無沙汰でしたが、おかげさまでこの参道の風景と出会った多くの人たちを懐かしく思い出しました。
私も父の歳はとっくに超え、母の歳に迫ろうとしていますが、老成などとは無縁の生き方で。それでいい、です。
コメントありがとうございます。
52歳になって思うのは、人間ってなかなか精神年齢は上がっていかないということです。若い頃と変わらない。
変わらないのを嬉しく思っています。変わるのは肉体、外形です。しかし、肉体的な老化が、やがて精神に反映して、精神的にも老いを自覚するようになるのだろうと思っています。
精神的に若くありたいのであれば、体を保つことが大事なのかも知れません。
人生は一度きりの船旅のようです。船がひっくり返るという、自分ではどうにもならないハプニングが起こることもあります。
人生の船旅は、いつまでも処女航海のようなところがあります。体験をしてはじめてわかることが多いですね。
荒波を乗り切るための技術と知恵は、経験と学習によって少しは身についているように思います。でも、はじめて出会う出来事の方が多いので、なかなか物事を見通せるようにはいかないですね。
奥の院につながる道は、大きな木々の中にあるので、なんだか包み込んでくれるような感じがあります。印象深いのは大きな木の力なのかも知れません。