Hおばあちゃんの告別式
午前11時に大谷のセレモニーホールに行った。Hさんのおばあちゃんの告別式で受付をおこなうことになっていた。
告別式が始まるまでの時間には、厳かな空気が流れている。
Hさんのおばあちゃんとの出会いは、ぼくの中学生の頃に遡る。当時、かつらぎデパートが、笠田中学校の北側にあった。デパートのドアを開けるとその正面におばあちゃん(当時はおばちゃんだった)のお店があった。パンなどが売られていて、そこには目玉焼きのスライスやハム、レタスなどを挟んだ調理パンが売られていた。
ぼくたちは、土曜日の放課後などに、おばちゃんのお店に行って調理パンを買ったりしていた。あるときにおばちゃんと話になり、ぼくたちは寄宿舎に住む生徒であること、おばちゃんの家は、寄宿舎の近くにあった裏門からほんの少し西に行ったところにあることなどをつあえ合ったことがあった。
しばらくして、友だちと一緒におばちゃんの家に行ったことがあった。
ぼくたち家族は、笠田駅前に住んでいたのだけれど、ぼくは新城小学校の同級生が寄宿舎に入っていたので3年間寄宿舎で生活していた。当時の中学校の先生の判断は、駅前に家のあるぼくを寄宿舎に入れてあげようというように、柔軟なものだった。
駅前から和歌山市内に引っ越しをしたのが18歳の910月頃だった。ぼくはそれ以後4年間、和歌山市内で暮らすことになった。両親はすでに他界していた。兄弟3人で暮らすはずだった夢は簡単に壊れバラバラになり、家に残ったのはぼくだけになった。和歌山での4年間の内、ほぼ3年間を1人で生活した。
4年たって、大学を卒業した年の6月、ぼくはかつらぎ町に戻ってきた。
この時に、借りたアパートが、Hさんのおばちゃんの管理するアパートだった。
ぼくとおばちゃんは、大家さんと借家人になった。
アパートは、細長い建物で日当たりのほとんど無いところに建っていた。3畳と6畳2間のその部屋でほぼ4年間生活した。
おばちゃんに再会したのは、30歳になって町議選挙に出たときだった。おばちゃんたちの家族は、それ以後、しばらくしてから折居地域に家を建てて引っ越しをした。ぼくは34歳で結婚をし、娘が38歳で生まれてから3年後、折居に引っ越しをした。おばちゃんとぼくは、こんどは同じ町内会の同じ班で生活するようになった。
今日の告別式には、元議員のNさんが参列していた。
告別式が終わる間際、ぼくはNさんの横に座った。
「東芝氏よ」
Nさんは、よくぼくにこう話しかけてくる。
「なくなったおばんとわしは二従兄弟なんやで。そうやのに、選挙の時に『東芝君を応援せなあかんようになったので、よう票入れやんわ』っていうたんや。そやさかいに、今日はこういうように手伝ってるのもええで」
Nさんは面白そうに笑った。
親族の最後のお別れが始まりつつあった。
ぼくは、立ち上がって近所のN君といっしょに花を受け取って花を手向ける人の列に加わった。
おばちゃんの顔はおだやかに、眠っているようだった。まわりの女性の人がおばちゃんの顔をなでていた。
菊などの花に囲まれていたおばちゃんの顔の近くに行き、両手を合わせた。手を合わせると悲しみが目のまわりに集まってくる。
女の人は、何人も目頭を押さえて涙をこらえていた。
おばちゃんは毎日のように畑に行き、近所の人たちに大根やタマネギを良く分けていた。ぼくたち家族もおばちゃんの作った大根で味噌汁を作ったりしていた。一番長く食卓に出てきたのはおばちゃんのタマネギだった。
選挙の時は、ぼくの自宅の事務所に来て、「がんばりや。きつかいないって」と言って励ましてくれていた。
ぼくは、ずいぶんおばちゃんに大事にしてもらっていた。
縁という言葉がある。おばちゃんとぼくは縁で結ばれていたように感じる。
93歳というアナウンスがあった。
小柄な人だった。笑った顔が優しかった。
よく働く人だった。
学校に通う娘に話しかけてくれ、娘もおばちゃんのことが大好きだった。
お手伝いに来ていたKさんは、おばちゃんのとなりで野菜作りをしている。
「おばあちゃんは、ぼくの野菜作りのお師匠さんやった。どんなにがんばってもおばあちゃんのような野菜は出来やん」
Kさんは優しい顔をしてそう語った。
葬儀が終了して、お手伝いと親族の引き継ぎが終わり、会場の外に出ると雨が少し降っていた。北側に見える山は灰色の中にかすんで見えた。









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