仕事は「公私混同でいい」
スタジオジブリの鈴木敏夫さんは、人生を楽しんでいるように見える。この人が、手がけた映画の宣伝は、作品の善し悪しをかなり超えて映画館に人を動員させる。どうしてそのようなことが実現するのか。
多くの方々がそのマーケティングの手法を学びたいと切望している。
その辺の所を「ジブリ汗まみれ」でかなり赤裸々に語っている。テレビのプロデューサーの方々は、どうしてもそこら辺の話を聞きたい。喉から手が出るほどに。
「仕事は公私混同でいい」
鈴木さんは繰り返しそう言っている。
雑誌「アニメージュ」の第一回から編集を尾形英夫さんに頼まれたときに、尾形さんは、「うちの息子がアニメのファンなんだよ」と言ったという。「アニメージュ」は、この尾形さんの思いがあって企画が立ち上がり、雑誌になっていったのだという。
その話が転がっていく。
宮崎駿さんは、「風の谷のナウシカ」を1人の男に見せたいために作ったのだという。
「たった1人の男にですよ。ものすごいお金をかけて」
物事を進めるときに、どれだけ主体的に情熱を持って取り組むのか。これが決定的に大事であり、人間を突き動かす動機は、極めて個人的で不純なものでいい。この個人的で不純な動機にこそ、人間、力が入る。
鈴木さんは、どうもそういうことを言いたいようだ。
「千と千尋の神隠し」は、宮崎駿さんのところに来たスタッフの子どもたちに見てもらいたいということが動機だった。話は全部半径3メートルのところに落ちているという話もあった。
主観と客観との狭間で、物事を動かす個人的な動機。個人の思いこそが普遍性を持っているという面白さ。
こんなことを書いていると、歴史と個人という問題が蘇ってきた。
歴史の中で、個人が大きな力を発揮することがある。個人が、その時代の中で表舞台に押し出されて、巨大な力を発揮することがあるのは、歴史を動かす諸関係の中に、人間を大きく突き動かす要因やメカニズムがあり、これを推進するときに個人が歴史の表舞台で決定的な役割を発揮するということだ。
ナポレオンやヒトラーがいたからああいう歴史が展開したというのではなくて、時代を大きく突き動かす流れの中で、個人の思惑と歴史の歯車がかみ合ったときに、個人が歴史の表に躍り出て、一定の役割を果たすということだ。
全ての人間は、時代の制約を受けつつ、ときにはその時代に押し出されて、歴史を一つの方向にすすめる力を発揮することがあるということだ。そういう時代は、歴史にとっては一つの転換期をなすことが多い。
織田信長が歴史上、どのような位置にあった人物で、どのような役割を果たしたのか。というのは、時代の諸関係抜きには考えられない。ナポレオンがフランス革命と切り離せないように。ヒトラーが世界恐慌とドイツの第一次大戦後の経済的疲弊と切り離せないように。
橋下徹さんと時代の波を考えると同じようなことがいえる。あれだけマスコミに露出していた人の影はかなり薄くなった。半年間の出来事だ。歴史によって表舞台に押し出されたことには理由があり、頂点と凋落にも理由がある。個人の力量は半年前と半年後と大きく変わるものではない。何が変わったのか。
歴史と個人、個人の思惑と歴史の流れ。
この話は鈴木さんの「仕事は公私混同でいい」という発言とつながっている。