2学期制の導入経過を振り返って
今回の一般質問では、2学期制のことを質問テーマに取り上げる。かつらぎ町は、もともと学校管理規則には次のように書かれていた。
第2条
学校の学年は、4月1日に始まり翌年3月31日に終わる。
2 学年を分けて次の3学期とする。ただし、校長は教育上必要と認めるときは、かつらぎ町教育委員会(以下「教育委員会」という)の承認を受けて別に学期を定めることができる。
かつらぎ町は3学期制をとるが、校長は、教育上必要と認めるときは、学期を変更できる。──これは、校長の権限として教育上必要であれば、学期制を変更できるというもので、学期を変更できる権限は教育委員会にないというものだった。
しかし、平成15年3月の時点で当時の教育長は、教育委員会で2学期制導入を決定し学校に押し付けた。
ぼくはこの是非を質問で追及した。
一般質問は、平行線をたどり、教育長は教育委員会の権限として2学期制を決定し導入できるという点を最後まで主張した。
しかし、一般質問が終了してから以後、教育長の答弁が問題になり、最終的に本会議で教育長は次のように発言した。
「現行管理規則は、学校長の学期変更願と教育委員会の承認を経て学期を変更することとしております。したがいまして、学期変更については、議員ご指摘のとおり、学校の学期変更が先行し、教育委員会が承認することになっています。私の答弁の中で、この点について議員の質問の趣旨を十分汲み取ることができなかったことについてお詫び申し上げ、訂正するとともに、この考え方を大切にしていきたいと考えております」
ぼくは、一般質問の内容が、教育長の発言によって変わってしまったので、一問一答方式で内容をまとめることができなくなり普通の記述方式で質問をまとめ、最後に次のように書いた。
何が問われていたのか
「教育基本法第10条」は、「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負って行われるべきものである。教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行わなければならない。」として、教育内容に教育委員会は、介入できないと規定しています。
また、「地方教育行政の組織および運営に関する法律」の第23条は、教育委員会の職務権限を列挙していますが、その職務権限は、第25条で「法令、条例、地方公共団体の規則並びに地方公共団体の機関の定める規則及び規定に基づかなければならない。」と規定しています。
これは、教育委員会の職務権限は、法令等に根拠があるものに限定されることを規定したものです。この法解釈に異論が生じる余地はありません。
かつらぎ町教育委員会は、この法律を受けて「かつらぎ町立学校管理規則」を定め、2学期制導入については、第2条2項で次のように規定しています。
「学年を分けて次の3学期とする。ただし、校長は教育上必要と認めるときは、かつらぎ町教育委員会(以下「教育委員会」という。)の承認を受けて別に学期を定めることができる。」
法体系から見て、教育委員会がこの規則を守るのは当然のことでした。
ところが、かつらぎ町教育委員会は、平成16年度からすべての小中学校で2学期制を実施することを決定し、この方針を学校現場に徹底しました。これは明らかに、紹介した2つの法律、1つの規則に違反した行為です。教育行政が法律と自ら決めた規則を守っていなかった。問われていたのは、教育行政の根本的なあり方でした。
しかし、当時の教育長は、このようないきさつを一切教育委員会には報告せず、事実上おこなった行為を訂正しないで2学期制導入を残りの学校にも押し付けていった。
最後まで残った笠田中学校では、結局、教職員と保護者から校長先生が孤立し、校長の権限で2学期制を導入するということになった。意見は最後まで対立し、それでも17年度から2学期制が導入された。
今回のぼくの一般質問は、このような経緯をたどった2学期制について、2学期制を続けるのかどうかを学校長の権限に戻し、教職員と父母との間でこの間の成果などをお互いに確認し合いながら自由に議論し、選択できるようにすべきだというものだ。
2学期制の導入について取材をしていくと、自主的に導入を検討した学校では、2学期制による学校運営の工夫・改善への取り組みがあり、成果や問題点が浮き彫りにもされていたが、押し付けられた学校では、深い議論や検討がなかったようだ。
もともとの学校管理規則は、「校長は教育上必要があると認めるときは」となっていたので、あくまでも教育上の必要性が前提となっていた。
結局、教育的な配慮がないままに上から一方的に「教育改革」の名で導入が図られた。こんなやり方をしたので、内容のともなわないものが学校現場を振り回すこととなった。教育改革としては最悪の事態を引き起こしたといっていいだろう。
上からの教育改革は、押し付ければ押し付けるほど内容が失われる。教育は、内発的な動機づけがなされないと改革にはならない。
この間の文部科学省の改革は、一貫して教育現場の自発性を培いながらおこなうという方法を取ってこなかったので、学校現場にはさまざまなひずみが生まれている。
学校評価制度しかり、小学校における外国語しかり、中学校における武道しかり。
導入してから一定の時間が経過した総合学習も、深い議論が組織されないままおこなわれてきたので、内容のともなっていない取り組みもあるようだ。
形作って魂入れず。
型から入る教育。
こんなことを繰り返しているかぎり、生き生きした学校現場は生まれない。
頻繁にモデル的な研究が学校で取り組まれている。
間違っているなと感じるのは、どこかの学校で深く研究されたから、成果は把握できたので、町内のすべての学校で一気に実施しようというやり方だ。
このようにして方針が押し付けられた学校では、最初の学校で深く研究した内容が、まったく受け継がれなくなってしまうし、学校ごとの違いなども比較検討されなくなる。
一つの教室でうまくいった教育実践が、うまくいったという成果に着目して強制的に他の教室に押し付けられたら、その実践は似て非なるものになってしまう。
大事なのは、自主的な精神、子どもの状態の自主的な分析であって、形ではない。自主的な研究授業から始まった実践は、形だけ真似をしたら一番大事な部分が失われてしまう。
教壇に立っている教師の方々はこのことを痛いほどよく理解している。
なのに、教育委員会は、このことを配慮しない。管理すれば教育はよくなるという認識は、戦前の遺物の復活だろう。








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