「感謝」について考えたこと
笠田小学校の卒業式に出席させていただいた。30人の卒業式だった。
校長先生もPTA会長も「感謝」の気持ちの大切さをあいさつの中で語っていた。
「感謝」というのは、相手に対して言葉でありがとうという気持ちを示すということだろう。「謝」には言葉を放つという意味があるようだ。ありがとうと感じたことを言葉できちんと伝えるという意味が「感謝」にはありそうだ。
まわりの人に「感謝」の気持ちをもつというのは、自分という存在が一人では生きていないということを深く知ってほしいという気持ちが込められているように思う。人間は一人で存在しているのではなく、社会も家庭も地域も学校も、すべて人間と人間との関わりによって成り立っている。
そのことを深く自覚して、たえず「感謝」の気持ちを忘れずに生きてほしいという思いが、「感謝の気持ちを忘れず」という言葉には込められている。
他人との関係を断ち切る傾向とともに自分勝手な、自分さえよければいいというような傾向が強まっている中で、まわりの人々との関係が薄くなっているような傾向がある。挨拶がこの傾向を意識しているのかどうかは分からなかった。しかし、「感謝」という言葉を強調したい背景には、こういう傾向に対峙したいという意識があるかも知れない。
「感謝」の意味を考えながら、同時に考えていたのは個人の尊厳だった。
「卒業生のあなた方一人ひとりはかけがえのない存在です。かけがえのない存在として、夢を持って目標に向かって努力してください。でも同時にまわりに存在している友だちや全ての人々も、あなたと同じようにかけがえのない存在としてそこにいます。だからこそあなた自身を大切にするようにまわりの人々も大切に考えてください。そういう気持ちをもって『感謝』ということをぜひ考えていただきたいと思います」
ぼくは、「感謝」という言葉に心を動かされながら、こういうことを考えていた。
「感謝」という言葉は、古くから存在しているものであり、おそらく戦前は個人の自由などという考え方が極めて不十分な中で「感謝」という言葉が使われてきたと思われる。日本の歴史では、戦後はじめて国民主権が実現し、その中でようやく個人の尊厳が認められた。個人として自分の人生を自由に生きることができるようになって、人生が大きく変わったのは女性だろう。それでもまだ手放しの自由というものは存在せず、女性であるがゆえの賃金格差や働きにくさというものは、数多く存在している。まわりの人に「感謝」して生きようという中には、まわりに逆らってまで生きるべきではないという考えが潜んでいた時代もあった。しかし、そういう傾向は、もう過去のものとして影をひそめつつある。女性の成長の道筋として、一生の職業を見据え、高校、大学へと進学する女性が確実に増えてきた。女性だから適当に進学し就職して、結婚すればいいという考え方は、まだなくなってはいないが少数にはなっている。
こういう時代の中での「感謝」というのは、相手の尊厳を自分と対等平等のものとして認めた上での「感謝」だと思われる。個人の尊厳を大切にするという傾向は、改めて話をしなくても、多くの人々の中に感覚としては備わりつつあるだろう。不足しているのは、「あなたがかけがえのない人間であるように、あなたのまわりの全ての人々もかけがえのない、同じ権利を持った人間です」ということなのだと思う。自分のことは大切にするが、まわりの人のことは簡単に否定するという傾向には、きちんと向きあい、そうではないということを語り合うのは、かなり重要なことだと思う。個人の尊厳を大切にするからこそ、相手の人格や人権を大切なものだと理解して、まわりの人を尊敬して「感謝」する。この考え方が多くの人々の中に根をはっていけば、「感謝」という言葉が新たな力を持って生きてくる。
自分のことを大切にするが、相手のことは平気で傷つける傾向には、自分のことを本当は大切にできていない、自分が深く傷ついているという錯綜した意識も潜んでいる。自分さえよければいいと言って相手を傷つける人は、本当は自分を大切にできていない。根底には自己否定が潜んでいるという側面もあるだろう。
自分をこえられないものを自覚して畏敬の念を持って、まわりに「感謝」するという古い「感謝」の姿から、まわりの人々をリスペクトしながら「感謝」するという新しい形へ。リスペクトと「感謝」から生まれてくるものは人間への信頼、新しい結びつき。それは希望につながる。卒業式の席上で、ぼくはこういうことを考えていた。










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