問題意識を持つことと、捨てること

雑感

大学に入った娘が、ガイダンスの結果、心理学を学びたいと言い始めたので、心理学を学ぶのだったら教育学を学んだ方がいいのではないかと言いつつ、ぼく自身も心理学を学んでみようという気持ちになった。Amazonで『アドラー心理学入門』と『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』を注文した。なぜアドラーかという明確なものは何もなかった。
注文した本は、すぐに事務所に届いた。
ぼくがまず読み始めたのは『アドラー心理学入門』だ。この本はものすごく読みやすい。難しいことは書かれていない。この本を読んだあとは、『嫌われる勇気』へと読み進んでみたい。

以前にも書いたかも知れないが、物事をありのままに見るというものの見方に接近したいと考えている。物事をありのままに捉えるためには、矛盾しているように見えるが、問題意識をもって物事を捉える必要がある。問いを立てる力がないまま、物事をありのままに見ても、認識出来るのは深みのない表面的な事柄だろう。事実をありのままに捉えるためには、その事実を事実たらしめている要因や要素にまで迫って把握する必要がある。そのためには、どうしてこの事物はこのようになっているのだろうという問いが必要になる。
問いを立てる力というのは、のっぺりと見える事実に対して、一定の角度からその事実を串刺しにすることなのかも知れない。場合によっては、メスを手にしてその事実を切り刻んだり、分解したりして、立てた問いに導かれて徹底的に分析する必要がある。そうしてはじめて事物をありのままに捉えることに接近できる。

しかし、同時に問いを立てる力というのは、誤った前提によって立てられた問いである可能性がある。つまり、自分の問題意識が根本的に誤りを含んでいたり、完全に誤っていたりする可能性があるということだ。
問いを立てる力が必要だけれど、同時に立てた問いによって、事物に対する新しく得られた認識に対して素直である必要がある。立てた問いによって、物事の新しい側面を「発見」していくが、この新しい側面の発見によって、潔く立てた問いそのものを捨て去ることがどうしても必要になる。

事物をありのままに把握するためには、問題意識が必要だが、問題意識が誤っていることも同時に意識し、さらに問題意識によって「発見」した新しい事実によって、問題意識そのものを捨て去ることも必要になる。この認識があってはじめて、事実をありのままに捉えるものの見方考え方に接近できる。

ぼくが書いているようなことが、現実に可能なのだろうか。
問題意識を持って、物事を分析し、新しく得た事実に従って、最初の問題意識を捨てる作業というのは、一体どういうものだろうか。カギを握っているのは、調査によって新たな事実を「発見」すること、その新たな事実の「発見」によって、自分の問題意識が変化していくことを自覚し、その変化を楽しいと感じることだ。これは、実際の体験によって得られる。ここでいう「発見」は、自分の認識に新しいものを付け加えるという意味での「発見」であり、人類にとっての新たな発見を意味しない。

実際に、調査研究の過程で新たな事実を「発見」し、自分の認識や問題意識が大きく変化することはものすごく楽しい。この「発見」によって、自分の問題意識が変化することを自覚するようになれば、問題意識がどんどん変化することの楽しさを味わうことができるようになる。調査研究を行う前の問題意識が、具体的な調査研究によって変化し発展する。ここに学ぶことの面白さがある。問題意識を捨て去る行為というのは、新たな問題意識を獲得するということでもある。このときに役に立つのは、事実の前に謙虚になるということだ。問題意識が、新しい問題意識に変化することを柔軟に受け入れられるようになるためには、事実をありのままに捉えるというものの見方が必要になる。

自分の問題意識にこだわりすぎて、新たな事実を目の前にしても、それが受け入れられず、自分の問題意識に合致するものだけを自分の中に取り込んで物事を探究して行く人は、結局は、自分の問題意識に都合のいい事実だけを取捨選択しているのであって、それは極めて恣意的なものの見方へと進んでいく。そういう姿勢は、本来の学びからは離れて行く。

問題意識を持つことと、問題意識を捨て去って新しい問題意識に発展すること。この両面を統一して捉えることが、学びを深める道だということだ。
今読んでいる『アドラー心理学入門』は、自分の従来の考え方を改めさせてくれる示唆を与えてくれた。問題意識の発展。こういうものに出会える学びは面白い。

雑感

Posted by 東芝 弘明