未来社会がかかえる課題
腰痛一歩手前まで来たので、接骨院に行った。少しましになったが、明日も行く必要がある。
待っている間、『古典教室 第2巻』を読んだ。未来社会における生産手段の社会化について、不破さんの論考を読み進んでいくと、エンゲルスがバラ色に描いた未来社会のあり方に対し、現実が接近してきているので、そんなに手放しにバラ色には描けないということが見えてきているという気持ちになった。
新しい社会は、どうしても旧社会の母斑を受け継ぎながら発展するので、今の日本の資本主義のように、さまざまな分野に深い傷があると、どうしてもその傷の回復、問題の解決が必要になってくる。それにどれだけの時間が必要なのかは、実際に取り組んでみないと分からない部分がある。
少子化にしても、農林水産業の衰退にしても、田舎の壊れかたにしても、回復への道のりはそう単純ではないと思われる。
もう一つの大きな問題は、会社(公務労働も含め)や生産の現場での民主的な組織運営の問題がある。現在の組織は、管理職によって労働者の統制を行っているが、この管理・統制の仕方は、生産のための生産、つまり利潤のあくなき追求という仕組みのもとでのものになっている。生産のための生産の下での管理・統制は、どうしても管理職による労働者の支配ということにならざるをえない。業務命令に対して労働者は、労働者は従わなければならず、それらは服務規律と呼ばれている。それは就業規則に書かれている。公務員には、職務専念義務がある。この中には、当然守るべきルールがたくさん入っているが、それらは指示、命令という形のものであり、業務命令には逆らえないことになっている。
もちろん、反社会的行為の実行を求めるような命令は、不当労働行為に当たるので、労働者の権利は守られているが、いずれにしても、現在の組織運営は、民主的な管理方法とはほど遠い。
戦後、日本の公立諸学校の先生方の運営形態には、校長先生と教頭先生がいても、同僚性を重視し、職員会議による合議制を重視していた時期があった。このころは、上司による命令というものではなく、協力と共同が成り立っていた。それを教育改革だといって、校長の権限を強化し、職員会議から同僚性、合議制の形態を打ち壊して、校長が最終の決定者であることを鮮明にしてきたのは、命令によって教員を従わせることが目的だった。文部科学省による上からの教育改革を教育現場に徹底するための仕組みが持ち込まれたということだ。しかし、学校運営は、このような業務命令による管理・運営がなくても運営でき、その方が教職員の自主性、自発性を発揮できる。こういう経験が未来社会には生きてくる。
未来社会では、生産現場も含め、管理の形態が大きく変わる。労働者が生産の現場でも会社の中でも主人公となり、主権者となるので自分たちの意志による自己決定、自己運営ということになる。そのためには、民主的な組織運営のあり方というものを作りだして行かなければならない。上司と部下という管理形態ではなく、管理職は単なる役割分担の関係に変わり、給料の差と職場内の身分の差のようなものはすべてなくなり、対等平等の関係によって組織が管理され運営されるようになる。
こういう社会に移行するためには、かなりの時間がかかる。
権威によって人間を動かす時代が過去のものになるためには、長期にわたる試行錯誤が必要になる。
民主主義の徹底と国民主権の徹底、充実と発展を基礎にして切りひらかれる未来。それは明るい展望をもつが、同時に解決しなければならない問題にも数多く直面するのは間違いない。