国民の側に立たない経済学
雑誌経済に連載されている「『資本論』を学ぶ人のために」を読み始めた。
さすが、大学教授。かなりかみ砕いて話が進んでいく。
マルクスが、貨幣も商品であり、この貨幣の歴史を明らかにした努力には、かなりの時間がかかっていること、商品の価値を形成した抽象的人間労働と価値についての解明をおこなうために、膨大な時間が必要だったことを解説している。
なかかな面白い。イラストがかわいい。資本論の講義としては、なかなかユニークでいい。
現在おこなわれている不破さんの経済学の講義と合わせて学んでみたい。
経済学は、すべての社会科学の基礎であり、経済学抜きの社会科学というものは、非常に主観的な解釈学になってしまうことを感じる。読売新聞に連載されている「日本の改新」という識者へのインタビューを読んでいると、そのことを痛感するケースもある。
この「日本の改新」に登場した経済の専門家の論調に対し、思うことを書いておこう。
新自由主義の立場に立っている経済学者の話には、論理不足、証明不足を感じる。
多くの論説が、消費税増税なしに日本の財源を確保する道はない説く。大企業減税の必要性については、それなりに説明するのに、消費税増税5%引き上げ、ゆくゆくは15%にという論理展開には、何の理論的探究もない。あたかも国民は豊かで消費税増税をおこなえば、財源はいとも簡単に確保され日本の財政は立て直るという神話がそこにある。
法人税減税をおこない、消費税増税を行った場合、消費税による財源確保が法人税減税の補填(穴埋め)にしかならないことへの言及さえない。
企業の側の論理については、まことしやかに展開してみせるのに、国民生活については、全く分析もしなければ、言及さえないというのは、いかがなものだろうか。
国民を誤った方向に導くのが読売新聞をはじめとしたマスコミの仕事なのだろうか。日本のマスコミは、批判的精神を全く見失って、国家権力よりも前に立って国民を誤った方向に引っ張ろうとしている。
昔炭鉱では、カナリヤをもって坑道に入っていたという話がある。人間よりも敏感に一酸化炭素などのガスを関知し、危険を察知したカナリヤに重ねてマスコミの役割を説いた人もいた。
現在の日本のマスコミは、国家権力の誤りを正す役割をすっかり見失って、振り込め詐欺の手配師にような役割を担いはじめている。
危機をあおる。いまお金を振り込まないと大変なことになると。しかし、それがサギだった場合、手配師は自らの誤りを認めないで黙りを決め込む。
日本の歴史には、国民全体が狂気に走った歴史がある。戦争への道は、やがて集団自殺のような作戦を是として進んでいった。特攻による攻撃も成果を上げたのは最初だけで、後半はまったくむなしい、若者を無残に死なせるだけの作戦となっていた。
その時にマスコミは、国民に事実を隠して戦果を誇大に報道し、敗北をまともに取り上げず、竹槍で本土上陸に備えるような訓練までさせていた。
これと同じ過ちを、いま経済的な世界で論じつつある。この狂気を質す必要がある。そうしないと日本は、国民生活を守らないで日本の経済と財政を破たんさせる恥ずべき国になってしまう。
国民に必要なのは、科学的な経済学であって、論理不足のデマゴキーではない。国民生活のことを具体的に分析しない経済学は、国民の立場に立っていない企業側の利益を代表した論理にすぎない。本当の科学的な経済学は、企業の側の論理を分析し、同時に国民生活の側の実態や論理も分析する。法人税減税のもたらす結果と消費税増税のもたらす結果を鋭く論じる。そして、どの道を選択すべきなのかも提示する。
国民の暮らしに思いをはせない経済学の専門家は、真の、科学的な、真摯な分析を行わない、偽りの専門家だ。是非とも自分の読んでいる論文が、企業の側と国民の側を両方分析しているかどうかを見極めていただきたい。それが、誤魔化しを見抜く出発になる。