お茶を入れて
2月14日の今日は、30回目の母の命日だった。
17歳の時に亡くなったので、母とともに過ごした時間よりも、ぼくははるかに長く生きている。
母は、紀北分院のベッドの上で、自分の死期を受けとめ、高野山の従兄とともに、ぼくたちのことを考えていた。
従兄は、父の兄の忘れ形見となった子どもだった。南の海上で戦死した父の兄は、自分の子どもに会うことができなかった。
母が東芝家に嫁いだときに、従兄は引き取られて育てられていた。母は、この従兄を自分の弟のようにかばっていたのだという。母が病気になってからもっとも頼りにしたのは、この従兄だった。
妹が奈良に養女となって行くことも、母が言い始めたことで、従兄は母の思いを受けとめて話を進めていた。まだ中学3年生の娘のことを母は一番心配していたのだと思う。
しかし、母の死は、母の思いを超えて事態を変えていった。
大人は、自分の死後、自分が望んだ方向にことが動かないことを感じる。死をきっかけにしてさまざまな変化が起こることを感じる。母の生きたいと願う思いは、子どもたちの未来に対する不安と結びついていた。
妹は、母の思いを超えて高野山の従兄のもとで高校生活を送ることになり、ぼくと兄は、笠田の駅前でそのまま生活することになった。
兄は、大学をやめ、橋本市にある本屋さんに勤務することとなった。
ぼくの日常生活だけが、あまり変化しなかった。
ただ、母が亡くなったことによって、ぼくはようやくいろいろなことを考えるようになっていた。変化は、まずぼくの内面を揺さぶった。
現在のぼくを作り上げたのは、母の死がその一つの起点だったように感じる。
内に閉じこもっていた自我が、母の死を境に、次第に外に向かって動き出すようになった。
しかし、この内面の少しの変化は、自分の進路とは結びついていなかった。ぼくは、社会に出るという自覚に欠けたまま、兄貴の肩によりかかり、さらにまわりの人の庇護の中でよりかかって生活していた。
ぼくが自分の力で独り立ちをしたのは、20歳を越してからだった。
自立は、わずか8万円の収入から始まった。
好きな仕事をして生きてきて、30歳で議員になり、相変わらず貧しいまま34歳で結婚した。
ひ弱だったぼくの自我は、さまざまな出来事の中で強くなり伸びていった。
波瀾に満ちた人生だったが、自分の望んだ方向にやりがいを感じて面白く生きてきた。振り返るとそう感じる。
ぼくの娘は、ぼくと妻とに支えられて生きている。子どもが小さいうちに、親の寿命が尽きてしまえば、子どもは親の庇護を失って波瀾に富む社会の中に投げ出されてしまう。健康に生活している日常の中では、普通は、そんな危ういことを考えない。だが、確固としているように見える基盤も、実はかなりはかないものの上に成り立っている。基盤はかなり危ういものだといってもいいだろう。
少なくとも子どもが成人するまでは、親は自分の体を守って生きてあげる責任があると思う。
しかし、それもまた自分の力だけではいかんともしがたいことだろう。
ときには、そういう危うさを感じ、自分の中に自覚を呼び覚ますことがあってもいい。
母の命日にそういうことを考えるのは、いいことだと感じる。
今日は嵐のような雨が降った。
30年前の極寒の時とはまったく違う天候だった。2月14日だけは、いつも30年前の天気と比較する習慣がついてしまった。
お昼、家に帰る前にオークワに立ち寄って、お供え用のおまんじゅうを買った。昼間にろうそくと線香を灯すことは少ないのだが、今日はめずらしく仏壇の前に座り火を灯し手を合わせた。
夜、母が息を引き取った時刻に、ぼくはひとりで湯船につかっていた。風呂から上がり、髪を乾かした後、お茶を入れ替えて仏壇に供え、もう一度ろうそくと線香に火を灯し、手を合わせた。
急須に残っていたお茶は自分の湯飲みについだ。母の元にお茶を運び、自分もお茶を飲んだ。
母と一緒にお茶を飲むのは、ほんとうに久しぶりだった。
30年。兄は今日のこの日をどんな思いで過ごしただろう。妹は何を思ってこの日を迎えただろう。
高野山の従兄だけは、子どもだったぼくたちが知らない母の姿を思い出して、この日を迎えたような気がする。
今日は8時45分頃家に帰った。
娘と妻は、ぼくの帰りを待っていて、バレンタインのチョコレートを手渡してくれた。
「チョコレートならブランデー入りの物がいいな」
数日前にそんな軽口をたたいていたので、箱が3つも用意され、おまけの1つは、まさにブランデー入りのチョコレートだった。パッケージにはナポレオンと印字されていた。
食べると口の中にチョコレートの甘さとブランデーが広がる。
甘さとまろやかさと苦さが入り交じって心地よい。
2月14日。
重なり合い混じり合う思いは、ブランデー入りのチョコレートに似ている。








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