娘の年賀状も完成
娘の年賀状も印刷した。手書きの文字をスキャナで読み込み、「あけましておめでとうございます」の文字をピンク色に変え、住所と名前のところを若干グレーにシフトして、真ん中にイノシシのイラストを配置した。
Photoshopがあれば、かなり自由自在に組み合わせができる。
“できへんのは、扱い方が分からないということであって、ソフトのせいじゃない”
Photoshopというソフトは、そういうことを思わせてくれる。
娘から時々メールが届くようになった。
今日は、パパというところをぱばと打ってきていたし、次のパパはパパパとなっていたが、かなり長文の絵文字入りメールになっていた。
肉声のままのメール文という感じがする。
ぼくたちの世代は、文章を書くときは、文章を書くモードにはいって、文章を書くような感じがある。「少し気取って書け」と書いていた丸谷才一さんの文章読本の極意を守っている自分があるのだ。しかし、娘は気取ることもなく、話し言葉で自由にメールを打ってくる。
明治以後に起こった言文一致の文章は、今日、本当の意味で実現しつつあるのかも知れない。
でも、話し言葉でない文章にもリズムがあり、魅力がある。
話し言葉文章も書けるし、きちんとした文章も書けるようになるのが理想なのかも知れない。
こんなことをさも分かったように書いているぼくに、どうしても書けない文章がある。尊敬語と謙譲語をきちんと使って文章を書くということがどうしてもできない。そもそも尊敬語の使い方も謙譲語の使い方も、ぼくのなかでは、かなり曖昧模糊としている。
尊敬語と謙譲語については、学ぶ気があんまりない。
言葉は、人間の生活の中で千差万別に変化し続けている。誤った用法が誤りでなくなってきたものも多い。「正しい日本語」というものは存在しないというのが本当のところであり、言語はたえず変革の流れの中にあるということだろう。
生活様式の変化は、たくさんの言葉を死語にしてきたが、同時に新しい言葉も生み出してきた。流行の中で編み出された言葉には、一過性ブームのように一世を風靡した後、急速に色あせて忘れられていくものがある。しかし、具体的な製品や物が作られ、それについてつけられたネーミングは、ときにはそのものの代名詞のようになっていくものがある。
言葉は、人間が文化を保持するかぎり、生きてうごめき変化していく。
きれいな文章を作り出すのも人間だし、言葉をおかしなものにするのも人間だ。








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