言葉の力

雑感

人というのは、言葉によって傷つくことがある。ぼくも何度かこういう経験をしてきて、記憶から消せない言葉が胸に残っている。そういう言葉を人に投げかけるようなことはしたくない。しかし、自分自身も過去に向き合った相手に対し、身を裂き血を滴らせるような言葉を投げつけたことがあるのではないか。それを考えると怖くなる。強く叱責することが、人間を傷つけるとは限らない。ずいぶん前のことだが最初の一撃はMailだった。今回は肉声だった。ただし今回の指摘は正に正鵠を射たものだった。この言葉に対し、従いたいと思った。

そういえば、人から言われた言葉をずっと印象深く記憶していることがあるのに、言葉を発した人に記憶を確かめると、「そんなこと言ったかな」ということが多い。言われた人はずっと覚えているのに、言った人はすっかり忘れている。こういうことが多いのは、どうしてだろうか。深く考えないで言った言葉が、受け止めた人には深く突き刺さるということがあるからだろうか。消える言葉と記憶に残る言葉。言の葉。葉はいつか朽ち果てて枯れる。言葉は発したときから枯れる運命にあるのだろうけれど、心に突き刺さった言葉は、聞いた人の心に種を受け付けるのだろう。生きる力になる言葉もあれば、人の生命を脅かす言葉もある。

議員は、言葉を力に仕事をしている。
相手の人格を否定するような言葉は使いたくない。人格攻撃だけは避ける。こう思って活動してきた。相手の人格を尊重しながら、論理をテーマに議論する。日本の場合、意識しないと批判が人間性に向かう文化の中にある。「あなたをそんな子に育てた覚えはない」というのは、親による子どもに対する根本的な人格否定だ。「あなたはいい子だ。でもこの考え方は違うよ」というアメリカの普通の考え方と日本の違いは、民主主義の分厚さの差でもあると思う。
一人一人の人間には、侵すことのできない尊厳がある。この尊厳を尊重しながら論理をテーマに議論をする。ここに人格攻撃をしない論じ方の基本がある。英語は言語の傾向として、誰が発した発言かということよりも、意識は論議の内容に向かう。日本語は、誰が発した発言なのかということが、議論の中にずっとつきまとう。○○さんの発言という意識が議論にくっ付いてくるので、人間関係が議論にそのまま反映される傾向がある。○○さんの発言から人を引き剥がして、「この発言」という形に発言を置き換えないと、日本語の場合、議論が深まらない。

匿名性が担保されるインターネットで、個人が自由に情報を発信できるようになったので、相手の人格を平気で否定する悪罵が、毎日大量に増産されている。この言葉の洪水の中で多くの人が、人格を傷つけられている。傷つけられた人がさらに相手の人格を否定した言葉を発すると、論議は泥沼化する。Twitterの議論は読むとおぞましいものが多い。140文字の感情のぶつけ合い。ここから生まれるものは「憎しみ」だけ。こういうものが多い。
学校でインターネットのマナーとして、人格攻撃をしないことを教えるべきだろう。そのためには、人格攻撃とは何なのか、深く立体的に明らかにする必要もあるだろう。そういうセミナーがあってもいい。

雑感

Posted by 東芝 弘明