人口減少問題は「今ここにある危機」
『人口ゼロの資本論』(大西広著)という面白い本を読み、今日から『「人口減少」社会とマルクス経済学』(友寄英隆著)を読み始めた。友寄さんの本では、人口問題はマルクス経済学では研究が遅れた分野になっていると書かれていた。『人口ゼロの資本論』は刺激的な本だった。マルクスの有名な文章が、資本主義の下での人口減少を指摘していると書いて、日本でも労働者の賃銀が、価値以下に切り下げられ、子どもの養育費や教育費が十分保障されていない中で、人口減少が起こっていると指摘していた。これは卓見だと思った。以下は資本論第8章 労働日のところにある文書だ。
経験が資本家に一般的に示すものは、一つの恒常的な過剰人口、すなわち資本の当面の増殖欲に比べての過剰人口である。といっても、この過剰人口は、発育不全な、短命な、急速に交替する、いわば未熟なうちに摘み取られてしまう何世代もの人間でその流れを形づくっているのではあるが。もちろん、経験は、他面では、賢明な観察者には、歴史的に言えばやっと昨日始まったばかりの資本主義的な生産がどんなに速くどんなに深く人民の力の生活根源をとらえてきたかを示しており、どんなに工業人口の衰退がただ農村からの自然発生的な生命要素の不断の吸収によってのみ緩慢化されるかを示しており、そしてまた、どんなに農村労働者さえもが、自由な空気にもかかわらず、また、最強の個体だけを栄えさせるという彼らのあいだであんなに全能的に支配している自然淘汰の原則にもかかわらず、すでに衰弱しはじめているかを示している。自分をとり巻く労働者世代の苦悩を否認するためのあんなに「十分な理由」をもっている資本が、人類の将来の退廃や結局どうしても止められない人口減少の予想によって、自分の実際の運動をどれだけ決定されるかということは、ちょうど、地球が太陽に落下するかもしれないということによって、どれだけそれが決定されるかというようなものである。どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは、だれでも知っているのであるが、しかし、だれもが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。われ亡きあとに洪水はきたれ!これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのである。だから、資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わないのである。
肉体的および精神的な萎縮や早死にや超度労働の責め苦についての苦情にたいしては、資本は次のように答える。この苦しみはわれわれの楽しみ(利潤)を増やすのに、どうしてそれがわれわれを苦しめるというのか?と。しかし、一般的に言って、これもまた個々の資本家の意志の善悪によることではない。自由競争が資本主義的生産の内在的諸法則を個々の資本家にたいしては外的な強制法則として作用させるのである。
日本でも資本主義の賞味期限がきれはじめ、資本主義としての持続可能性をも失いつつあるというのが、大西さんの分析だった。友寄さんの問題意識は、人口減少問題は、「今そこにある危機」だと書いている。どんな論理展開が始まるのか、楽しみだ。