作り手の方がはるかに難しい

雑感

毎月、原稿用紙300枚、文章を書かないと文章はうまくならないと、作家藤原審爾は書いていた。同時に、作家の妻は、作家に替わって連載小説の1回や2回、書くぐらいでなければ、ととんでもないことも語っていた。今から40年ほど前の話だ。今の時代、昔の作家よりも遥かに調べ物がしやすくなったと思う。パソコン1台でかなりのことが分かる時代だ。うまく行けばその当時の天気予報と気温まで分かる。それに合わせて表現を変えればリアリティが増すのは間違いない。

書くことを通じて、見えてくる景色がある。富士山に登れば、日本一高い山から下界を見ることになる。あの頂上に立ってしか見られない景色がある。
宮部みゆきさんや浅田次郎さんのように大量に小説を書き続けている人が見ている景色と、ぼくたちが見ている景色は大きく違う。経験と蓄積とさらなる研究によって、人がたどり着く地点は変わってくる。

エンターテインメントの世界の難しさ。宮藤官九郎さんの全ての作品、三谷幸喜さんの全ての作品が、成功しているのかと問えば、そうではないだろうと考える。
連続のテレビドラマの最終回ほど難しいものはない。大いに盛り上げて転けた作品も数多い。「何となく、しょうもなく終わる最終回」も多い。シリーズものでストーリーのあるドラマの場合、次第に転ける場合がある。回が進むにつれ、暴走気味の話が、暴走しながら部品を落とし、解体しながらバラバラになって空中分解したケースもある。ひどいのは世界観の崩壊だろう。でも、最後に書きたいのは、読み手、もしくは見る側と作り手は全然違う。作り手の方がはるかに難しいということだ。

いともたやすく作品を否定するな。作る立場に立って批評せよ。ぼくの言いたいことはここにもある。


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雑感

Posted by 東芝 弘明