議会だよりの編集、さらに進化した?
議会だよりの編集委員会は、正月を挟んで印刷会社が作ってくれた版下に基づく、紙面の校閲と校正という作業だった。回を重ねるごとに紙面がよくなっていることを実感している。今回は、フルカラーになってから4回目の紙面作成となったが、写真とそのキャプションが大きく進化した。写真のキャプションに力を入れることによって、記事に深みが出てきた。読んで役に立つ紙面編集になりつつある。
今回の決算特集は、以前と違って決算審査そのものが、1年間の町の事業を深く把握する努力の下での指摘事項だったので、議会の視点のある事業評価が具体的にできたと思っている。予算の目玉、決算の目玉という記事編集ではなく、決算委員会による評価を紹介する紙面になった。これは編集者としては、内容のある変化になったと思っている。さらに記者の取材メモがいくつか出てきたので、編集者の顔の見える紙面という点でも、前向きの変化となった。
「民主文学」から返事が返ってきた。一つは99枚という長さだったので「長い」ということ、「登場人物が多く、読者が作品世界に入りにくい」、「主題もはっきりしない」という評価で、掲載できないというものだった。
「長い作品はどうしても掲載のハードルが高くなります。まず20枚、30枚程度の短編にまとめていただければと思います」
なるほど。残念な結果だった。
しかし、原稿用紙99枚(ぼくの手元では104枚の作品)というのは、掲載困難な長さだったと思う。字数にして3万3000字超えだ。次に書いたのがスピンオフみたいな作品が5万7000字を超え、送付した作品の続編が2万5000字を超えている。書きかけの猫のキティの話が1万2000字を超える。完全なフィクションの「扉の向こうに」という短編で2万字超えなので、長すぎるということだ。短く書くことを自分に課す必要がある。
生まれて初めて書いた小説が、いきなり雑誌に掲載されるというのも、虫のいい話。もっと書き込んで作品の質を高めないと掲載には至らないということだろう。
もう一つは、送付した作品は、自分の高校時代の体験をベースに小説化を図ったものだった。自分の体験を物語として再構成して書いたので、自分の成長というテーマの時間軸がかなり長く、時間的にも高校時代から大学卒業まで、ぼくが民青の専従者になるまでの物語という長いのスパンの物語になり、送った作品はその一部だった。「テーマが鮮明でない」というのは、ここからも来ているように思われる。それが掲載されない大きな理由のだと思われる。
つたない掲載に至らない作品を、読んでいただいただけでもありがたいが、同時に何人かに読んでほしいと言って、作品を押しつけたのが恥ずかしくなった。未熟な作品にお付き合いを求めてしまった。
原稿用紙20枚(8000字)、30枚(12000字)というのは、ほんとに小さい。この中に物語をおさめることが、ぼくにとっては困難なのかもしれない。12000字を意識して、テーマの設定と物語の構築が求められる。一つはここに挑戦したい。




確か、トーマス・マンだったと思うのだが、小説は短ければ短いほど難しい、と述べている。400文字原稿用紙換算枚数で、99枚というのは、かなり短いのです。小説すばる、は、700枚前後での募集なのだが、こちらの方が書きやすい。自由に書くには小説すばるの方が楽ですね。20枚とか30枚とかいうのは、もう天才ぐらいしか書けないレベルです。然し、職業作家にでもなれば、編集部から来る依頼は、20枚とか30枚書いてくれ、という話になるので、シビアな世界です。まあ、民主文学も無茶な事を言いますなあ。
小説すばる、は400枚前後だったかもしれない。俺は以前、こちらの方が楽なのですばるに投稿していた。今、100枚前後の、文學界に挑戦している。
長く書くのは難しくないと思われます。リアルなシーンを重ねていくと、必然的に長くなります。20枚、30枚の作品となると、どういう書き方をすれば良いのか、研究してみます。原稿用紙100枚という長さは、文庫本でいえば60ページぐらいのものなので、短編の部類だと思います。民主文学の雑誌の場合、原稿用紙30枚、12000字の場合は、10ページ弱といったところです。それぐらいの長さの作品となりますね。ぼくの書いたものは、原稿用紙104枚だったので、民主文学の雑誌のページ数でいうと、30ページぐらいでした。3分の1の長さの作品を投稿してほしいということのようです。
しかし、長いがどうしても掲載したいというものではなかったという厳しい現実があったということだと思います。
掲載が見送られたとのこと、残念です。二十枚、三十枚の短い短編小説といいますと、ヴィリエドリラダンや中井英夫の幻想小説が思い浮かびますが、民主文学とは余り関係ないかもです。唯、何らかの小説上の仕掛けを持った短編ということになるのでしょうか。純文学でいいますと、第一に川端康成の掌の小説が浮かびます。生涯かけた川端康成の様々な実験が網羅されていて、飽きさせません。また三島も短編で、案外自己告白をしていたとの言葉があるように、短編の名手でした。短編の場合、何らかの仕掛けとか、ユーモアとか、一つ成就させることを狙いとしているように思われます。それが日常生活の写生と、どう繋がるか、私には分かりませんが、策の練りどころなのかもしれません。
まあ、初めて書いた小説が、掲載されるというのも虫のいい話かも知れません。短い小説を書けるよう努力してみます。