小さな力が政治を動かす

雑感

核兵器廃絶の課題。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が、2024年12月10日、ノーベル平和賞を受賞した。一人ひとりの被爆者が、渾身の力を込め、自分の体験を命の火を絞るように語ってきた力が、世界を動かし、核兵器廃絶の運動を国際舞台に押し上げた。もちろん、それを支え続けてきた核兵器廃絶を求める日本と世界各国の人々の運動が、大きな力を発揮してきたことは間違いない。これらの運動の先頭に被爆者がいた。

広島長崎への原子爆弾の投下は、人間とは何か、科学とは何か、戦争とは何か、核兵器とは何か、平和とは何か、人間の人生とは何か、政治とは何か、文化・文明とは何か、人々の暮らしと戦争との関係とは何か、核兵器と放射能が人間にどのような影響を与えたかなど、人間と社会と政治の根源に関わるテーマを、告発的に鋭く問いかけざるを得ないものだった。それだけ核兵器の使用は非人道的、非人間的なものだった。

この根源的な問いに対し、被爆者の体験は、この問いに真正面から答え続ける力をもった。それだけに1人の被爆者の証言が、世界を動かし続けた。市井に生きる人々が、世界の政治の中心に押し出され、その証言力によって世界を動かしつつあること。ここに国民主権の力がある。「人間は核兵器と共存できない」「核兵器は廃絶しなければならない」というシンプルな訴えこそが、世界史を動かす力だと思っている。だからこそ、このシンプルな訴えを日本政府に届け、国際社会に届け、実現するよう動くことが求められる。

核兵器廃絶の課題は、国の仕事というような理解があり、地方自治体は核兵器禁止条約を批准せよなどというべきではないという考え方があった。はたしてそうか。こういう課題にこそ、国民主権を貫くべきではないのか。
地方自治体における非核自治体宣言も、国民が行っている核兵器廃絶を求める平和行進も、一人ひとりの国民が主権者として声を上げる行為に他ならない。核兵器廃絶の課題は、国の外交によるもので、地方自治体が発言することは国の専権事項を犯すもの。という意見は、国の行う外交や軍事に対しては黙って従えというに等しい。

学術会議の改正案という、本当は学術会議解体法案が、衆議院を通過した。学者や学生が国会を取り囲んで、法案反対、廃案を求めて運動した。この声も、当事者である人々が、国政に対して主権者として声を上げるということだった。
核兵器の問題や軍拡の問題になると、それは国の仕事だからというのであれば、国民主権は死んでしまう。

建設されている沖縄・辺野古の米軍基地は、100%日本の国家予算で建設されている。基地反対の住民に向き合って、バリケードを張っているのは日本の警察だ。マヨネーズ状の海の中の地盤に対して、埋め立てを行っても基地はできないと専門家が指摘しているのに、基地建設は止まらない。国のやっている軍事や外交に対して、「住民は意見を述べる権利をもっていない」「地方自治体が反対するのは間違っている」というのであれば、政治の前で国民主権は死んでしまう。

被爆者の声に耳を傾け、二度と被爆者を生み出してはならないと思い、声を上げて平和行進に参加する。この行動は、一国民の小さな歩みかも知れないが、ぼくたちの歩みやぼくたちが持って歩いた横断幕は、主権者としての意思を表すもので、日本国憲法の精神を貫くものだった。小さな力が政治や社会を動かすようになる。ひとりの訴えは決して小さくない。ここに国民主権の力がある。

今日はあいにくの雨だった。30分ほど国道を歩くと靴や服が濡れてしまった。今日は原水爆禁止世界大会の成功に向けたかつらぎ町の平和行進の日。この日、ぼくが考えたこと、訴えたかったことはここにあった。

雑感

Posted by 東芝 弘明