父の軍歴

雑感

自宅のエコキュートが先週の金曜日に壊れた。電気店に連絡すると、手際よく対応してくださった。ぼくは議会の委員会があったので電話に出ることができないままだったのに、現地を確認し、判断してくれて三菱の会社につないでくださった。

日曜日、三菱から派遣された修理人がやってきて、ヒートポンプユニットをごっそり入れ替えて、壊れている機械を持ち帰ってくれ、直すという対応をしてくれた。現地修理の場合、直せないでもう一度来るし、時間もかかることが多い。本体の故障の場合は、持ち帰るという判断はできそうにないので、今回のような対応はできないが、クーラーの室外機のような形のヒートポンプユニットだと、こういう対応ができるということだと思われる。電気店の現地確認が大きな力になった。感謝したい。

自宅で議会だよりのページ割りを作成した。この作業にはかなり時間がかかる。この作業は、自宅の書斎で行った。長く使っていなかった机には埃が積もっていた。布巾で埃を拭き取って、使い捨てのウエットティッシュでさらに拭き取った後、キッチンペーパーで拭き取ってさらに乾燥させた。この机は横に長く、パソコンのキーボードを格納できるよう、机の天板の下にスライド式の収納ポケットがある。そこに父の軍歴を挟んだクリアファイルを置いている。そこも埃を拭き取って、作業に入る前に父の軍歴をあらためてみた。

父が昭和14年に召集されたのは北部十八部隊。中国にわたり支那事変の終わりごろに支那事変に参加している。このときは昭和18年8月10日、満支国境にいた。昭和18年8月22日に予備役に編入、8月25日満期除隊となっている。もう一度臨時召集されたのは昭和19年9月9日。この時は歩兵第八連隊に配属されている。2回目の召集後の所属を見ると、次から次へと部隊編入を繰り返し移動につぐ移動を繰り返している。所属部隊が次から次に変わっているところに、中国戦線で日本軍が次第に苦戦している姿がうかがわれる。
昭和20年4月29日に編入に継ぐ編入で、父は独立歩兵第六百五大隊第五中隊に転属しているが、それ以後転属の記録がない。この部隊でいるときに父は、昭和20年7月10日にマラリアに感染した。事実証明という形で病名が記載された陸軍大尉の署名による証明書がある。しかし、どれぐらいの期間でこの病気から回復したのか、記録はない。感染した場所は湖北省当陽県淯渓河(と読める)。7月10日から病気になったのは幸いかもしれない。それから1カ月あまりたった8月15日、天皇政府がポツダム宣言を受け入れ、玉音放送を行っている。

9月18日、湖北省当陽県淯渓河を出発し、10月7日に岳口に着いている。この岳口というのは岳口镇なのかも知れない。そこを出発したのは昭和21年4月27日となっている。日本に向け上海港を出発したのは昭和21年6月2日、博多に着いたのが6月5日、6月30日に召集解除となっている。

中国の文字が正確に読めるかどうかまったく自信がない。旧字体と今の字体にも違いがある。中国に詳しい人に父の資料を見ていただいたら、もっといろいろなことが分かるかも知れない。

こんなことを読み取るのに1時間ほどかかった。日本に帰ってきたときの父の年齢は27歳だったと思われる。昭和14年から日本に帰るまでの7年間。20歳から27歳の間、父は昭和18年に予備役になったが、1年余り後の19年にはもう一度召集されているから、父の20代の6年間は戦場にあったと言っていいだろう。

人間はいろいろな体験を自分の身体や記憶に刻み込みながら生きている。同じような体験をしても、どのような人間になるのかは大きく違ってくる。父は、中国戦線で自分でも数え切れないほど、中国人を殺害した。女性も男性も子どもも。老若男女の違いなく、斥候として身の危険を感じながら、偵察隊の一員として人の命を奪い続けてきた。おそらくこの任務は、最初召集を受けたとき、支那事変への参加のなかでのことだと思われる。2回目の召集のときは、日本軍が大きな打撃を受ける中で、隊が何重にも再編されていく中で、移動に次ぐ移動を余儀なくされているので、侵略戦争の遂行よりも逃げることが優先していたかも知れない。

戦後、父は大酒飲みの、酔っ払うと軍歌しか歌わないような、トラウマを抱え込んでいる人間だった。内臓を壊し、退院した日にお店にあるありとあらゆる酒を浴びるように飲んで、そのまま脳溢血になって命を失った。父のような体験を重ねた人間は、父のように生きる術しかなかったかも知れない。内面から沸き起こってくる戦争への思いと、暴力的な怒りのようなものが、父の人生を翻弄していた。ぼくたち子どもは、その姿が恐ろしく部屋の片隅で小さくなっていた。母はどうしてこんな父と結婚したのか、子ども心に分からなかった。

しかし、この父がいてぼくがいる。戦後も父の中には戦争だけがあった?のかも知れない。酒は父にとっては慰めと戦争への郷愁と軍の中にいた友と再会する手段だったのかも知れない。

戦後は平和の中にある。平和な時代であっても、個人はさまざまな体験を重ねる。その中で自分の中に色濃く体験が刻印されていく。傷つくことも多い。しかし、その傷から学ぶことも多い。父のような体験は、学びの域を超えてしまい、自らを滅ぼさざるを得ないものだったとも思われる。
父は酒を飲むと「麦と兵隊」を歌った。日雇いの土木作業員だった父は、仕事のできない雨の日に、昼の日中から酒を飲んでいた。父の「麦と兵隊」は雨の音とともに記憶に染みこんでいる。父の脳裏に何が浮かんでいたのか。

「麦と兵隊」は父が救いを求めた歌だったのかも知れない。

雑感

Posted by 東芝 弘明