自分自身の中に潜むジェンダー問題
笠田小学校校の運動会に来賓として参加した。夕方参加していた人に会うと、雨が降りそうだったので来賓紹介は割愛しても良かったのではと言っていた。そうやねと思った。
午後はLGBTQの学習会があった。トランスジェンダーの人の話を聞き、質疑応答が行われた。質問もさせてもらったが、自分自身も中にある性の多様性を認めることから始めるのも大事だと思った。それは、自分の中にある男らしさや女らしさを見つめ直して、それらが社会的に形成されてきたジェンダーなんだということを捉え直し、自分の生育過程で苦しかったこと、嬉しかったことを、性の多様性という視点から、思い返すことが大事ではないかと考えた。
「ヒューマニエンス」というNHKの番組で、実際に生物学的に一人ひとりに物理的な性差があり、性は男性と女性、女性と男性との間で無限のグラデーションの中にあるという話があった。男性と女性というように性を相反する2つの傾向と捉えるところから一歩進んで、性は生物学的に、つまり客観的に、物質的に多様性の中にあることを事実の問題として認めることができれば、柔軟な視点を得られると思っている。
科学的な事実を基礎に社会的性差を捉え直せれば、視点が柔軟になるのではないだろうか。生物的に男は男、女は女というように捉えた上でジェンダー問題を考えると、ジェンダーは考え方の問題になってしまう。
生物学的なグラデーションが、性自認や性的指向にどう反映しているかはよく分からないが、見た目の外観は、明らかに歳とともに変化し、男女ともにみずみずしさが失われていく。その変化には生物的な変化が色濃く影響しているが、それらが精神的なものにも影響を与える。
生まれが生物的に男性でトランス女性になった人の中には、おしゃれで外観的にも女性らしく見えるよう努力をしている人がいる。しかし年齢とともに変化していくと、おっさんぽく見えるようになるようだ。それはあがらいようのない変化だろう。
自分の中にある男らしさや女らしさを捉え直し、自分らしさに置き換えていく努力が、ジェンダー平等につながるのではないだろうか。ジェンダー平等は、自分の外の出来事であり、自分の認識をあらため、行動を変える課題だという視点だけで捉えるのではなく、ジェンダー平等は、自分の中の問題でもあり、当事者の1人として関わっていく課題であり、ジェンダーバイアスについての自身のカミングアウトも大事ではないかと思う。
例えば、男たちが自分の中にある男らしさや女らしさについてのこだわりを告白しあって議論すれば、それらのこだわりの滑稽さが見えてくる。社会によって押し付けられた偏見を笑い飛ばしながら、ジェンダーバイアスを自分らしさに置き換えるような議論をしてみたい。










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