思い出が鮮明に浮かんでくる
Hさんが亡くなったという連絡が入ったのは、金曜日の午後だった。H・Hさん。ぼくもヒガシシバ・ヒロアキなのでイニシャルはH・Hだ。子どものころからH・Hというイニシャルは少し恥ずかしかった。でもぼくのまわりで元気にしている同級生の女子の中にもH・Hさんは3人いる。
背の高い人だった。181センチとか3センチとかあったように思う。すらっと背の高い、長髪がよく似合うカッコのいい人だった。亡くなった満年齢は68歳。学年でいえば3歳年上だった。知り合ったのはぼくが高校生のころだったと思う。高野山の宿坊で開かれた「高校生夏期ゼミナール」という部落問題の学習会があったときに、フォークソングを歌っていたバンドの一員として会ったのが、初めてだったのかもしれない。Mさんという歌のうまい魅力的な人の横でHさんはベースを弾いていたのかも知れない。
きちんと話をしたのは18歳のときだったのではないだろうか。白い車に乗って、その横にぼくが立って話をしたシーンが思い出される。和歌山市に引っ越しし、民青同盟の仕事で22歳のときにかつらぎ町に再引っ越しし、23歳で共産党の専従職員になったころから親しく話をするようになった。そのころ、Hさんはもうすでに結婚しており、民主商工会で仕事をしていたように思う。
25歳のときにHさんは、訪問した党員を目の前に「ぼくは東芝君を結婚させる会の会長だ」と突然宣言した。「えー、そうなんですか」ぼくは心底驚いた。
女性とHさんと3人でお酒を飲みに行ったこともあった。Hさんは繰り返し熱心にぼくに働きかけ、関わってくれた。意気地のないぼくに対して、どうしてあれだけ深く関わってくれたのだろうか。
亡くなったと聞いてから、思い出の中にあるHさんの姿が、次々と具体的なシーンとなってよみがえってきた。
ぼくが日本共産党の議員になってからは、橋本市議選挙の選挙対策の一員として一緒に肩を並べて仕事をした。Hさんは富岡候補の責任者になり、ぼくは古倉候補の責任者になった。ぼくとHさんが個別選対の責任者になったときの最初の選挙で、2人は見事に当選した。それから4年後、古倉さんと富岡さん、阪本さんの3人を立て選挙をたたかったときのことが忘れられない。
何票あれば当選できるかという話の中、ぼくが担当した候補は、950から1000票の間だと思うと報告した。これで通るだろうという話だった。
Hさんが開票場から電話を入れる役だった。
「800」
届けで順1番の候補者が、ぼくの担当した候補者だった。
「やったあ」
ぼくは思わず声を上げた。
彼の声のトーンは低かった。違和感を覚えながら数値を書き込んでいくと、800票は最下位同数だった。
「えっ」
言葉を失った。選挙の結果、ぼくの予想は当たっており、候補者の票は950から1000票の間だった。このときの選挙で通ったのは新人の阪本さんだけで、現職の2人が落選した。このときの選挙のころ、ぼくは40歳の手前だったと思う。娘が生まれ、選挙の集計途中で自宅に戻り、娘をお風呂に入れて、もう一度選挙事務所に戻るということを、毎日繰り返していた。
ぼくは34歳の秋に結婚した。自称「東芝君を結婚させる会の会長」だったHさんに、結婚式の実行委員長をお願いした。実行委員会形式の結婚式がなくなりつつあるころの結婚式で、会場はできたてのかつらぎ総合文化会館大ホールだった。
宝来山神社で絵結婚式を挙げた後の披露宴では、結婚届に調印をして役場に届けるということも組み込んでいたので、神式と人前結婚式を2つ行うようなものになった。披露宴なのに調印も行うというのはユニークだった。多くの人に来てもらうことになり、保守系議員の方々も数多く参加してくれる結婚式の披露宴となった。
Hさんはこの結婚式を取り仕切ってくれた。写真の中には、一番後ろで式を見守っているHさんの写真がある。
「Hさん、総監督のような感じやね。この写真は」
ぼくの同級生で実行委員会のメンバーになった一人はこう言った。
選挙の打ち上げか、結婚式後の実行委員会の打ち上げか、記憶は曖昧だが、カラオケでHさんは、ハウンド・ドックの「Only Love」を歌った。かっこ良かった。初めて聴いた歌だったのにしびれてしまった。ぼくはその後、大友康平のこの歌を買って、車で聞き、Hさんが歌ったこの曲を歌うようになった。
今日、通夜の後、通夜の部屋の中に入って、儀式が全部終了するまで椅子に座って待った。顔を見て帰りたいと思った。ぼくの隣の隣には、Hさんとバンドを組んでいたMさんが座っていた。お坊さんの戒名の由来を紹介する丁寧な口上が終わり、柩の顔の部分が開けられた。ぼくは列の後ろに並んで順番を待った。
穏やかな顔で眠っているように見えた。手を合わせた。涙がにじみ出てくる。
直感で物事の本質をつかむようなところのある人だった。耳を傾けても話を飲み込めないときもあった。語り始めると熱く、でも感情的にはならない人だった。ぼくにとって、忘れられないシーンをいくつも残してくれた。
長い闘病生活だったと思う。多くの消防団員が参列していた。インターネット上に地元の消防団のホームページを作る熱い消防団員魂をもった人でもあった。
会場の外に出て、長い信号の残時間の表示を見た。少し手先が震えてきた。
車の中で大友康平の「Only Love」を聞き、少し口ずさんでみた。
ご冥福を心からお祈りします。








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