「こうすべきだ」という意見はいつも間違いを含んでいる
知らないことが多すぎると思う。ぼくの知っていることはほんのわずか。ぼくたちは一寸法師のように小さい。それなのに偉そうだったりする。どうしてそうなるんだろう。
最近、「こうでなければならない」というのは、多くの場合間違っているのではないかと思い始めた。オセロのピッコロというゲームをコンピューターを相手に行っている。レベル9の中でレベル5を選んでいる。60階のうち、1回勝てるかどうか。オセロは、レベルが上がってくると、全ての手を見通し、対戦相手のぼくが、「そこにしか行けない」という形に追い込んでいく。どんなに多くの黒を持っていても、あれよあれよという間にひっくり返される。コンピューターは全部手の内を読んで、白い石を置く。なんであんな所に置くんだろうというものが、全部意味のある置き方として生きてくる。全く歯が立たない。
オセロゲームのコンピューターは、「次の一手はこうでなければならない」という所まで見えている。全部のパターンを読み取っているからだ。全ての石が全部白に変わって、黒は1枚もないという負け方も多い。
自分の人生、先の見通しなんてなく、全部事態を読み取って動いていることはほとんどない。したがって「こうでなければならない」という所まで、目が詰まっていない。本人が思う「こうでなければならない」というのは、単なる思い込みに過ぎない。オセロは小さな64個の盤上の石の世界だからこそ、コンピューターは全てを予測して動くようになる。世の中はオセロのようにシンプルではなく、全部をつかんだと思っていても、見落としている事実はたくさんある。その中での判断は、いつも不確かさに支配されている。「こうでなければならない」ようなところまで見えていないのだから、偉そうにしなさんな。こうすべきだよという意見は、おそらくいつも間違っている。
そう思いながら生きるのがいい。










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