変化量と比較論
夜、カレーを食べたら眠たくなってきた。
イケメンパラダイスを見ながら寝てしまった。
起きたら11時前。
汗だく。
今日も熱帯夜。
「ヴォイニッチの科学書」(ポッドキャスト)を聞いていたら、北極の氷のとけ方が、温暖化予測の30年分をすっ飛ばして進んでしまったという話を紹介していた。
人間の科学の力では、まだ温暖化のメカニズムが把握できていない。把握し切れていないパラダイムさえあるかも知れないという話がなされていた。
今年の暑さは、異常だが、こんなに暑いのに彼岸花が咲いているのには驚いた。
彼岸花の球根にはカレンダーが内蔵されていて、彼岸が近づくと暑かろうが寒かろうが咲くということだろうか。
ぼくには、気温に支配されずに時期がきたら咲く彼岸花の不思議ささえ分からない。
ところで、人間、傲慢になったらおしまいだと思っている。しかし、自信がついてくると傲慢になる。
そんなときには、いかに自分には知らないことが多いのかを確認するようにしたい。
ぼくは、雲ができるメカニズムも、太陽の軌道も昼の星の綺麗さ(望遠鏡で観ると虹色に見えるらしい)も知らず、株の原理も分からず、携帯電話の仕組みも分からない。ムービーのシステムも分からず、水という物質の性質を数え上げることもできない。ビールの作り方も知らず、お米の栄養価も知らない。ガラスの分子結合の状態も説明できず、インスタントコーヒーの粉の生成方法も知らない。歯ブラシのブラシの数も知らず、石鹸がどうやって作られているかも説明できない。
あたかも分かっているように振る舞っている自分という存在を見つめ直す、知らないことの方がいかに多いかを感じることは大事だと思う。とにかく自分の目に触れる事物のほんの一握りのことさえ分からないのだということに思いをめぐらせることは大事だ。
人間は、変化量を感じ取ることによって物事を認識できるという話を聞いた。
変化量がなかったら人間は認識すらできない。
そうこうしているうちに中学生向けの本で、苅谷さんが他のものとの比較と歴史的な比較によって認識が広がり深まることを書いていた。変化量によって初めて認識できるという話と、この比較によって認識できるという話は、深いところでつながっている。
予算を見るときに、まず前年度の予算と比較してみたり、他の自治体と比較してみたりする。そして歴史的な変化も見る。これだけで多くのことが分かってくる。
変化量によって認識するということ、比較するというのは、まさに変化量(ここでは差異とよんでもいいだろう)を見るということだ。
規定性は否定性というのも変化量による知見だろう。








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