ふるさと

雑感

まっすぐに伸びる道の先に山がうす青色に見え、空の青に馴染んでいる。両脇の街路樹が空に向かって、手を広げているようだ。まるで幸せが降ってくるのを受けとめているような木だった。
車はその道を滑るように走っていく。
冬の暖かい日、景色がきれいに見えた。夕方に向かう少し前。まだ夕暮れが始まっていない時。1日の中で一番時間がゆっくる流れているようだ。どうして、普通に見えていた景色が、胸にしみ込んでくるんだろう。
何度も見たことがある景色なのに。何か、印象に残るような出来事があったわけでもないのに。

ぼくは、小学校6年生まで、山と山とに囲まれ、その一番低いところに川が流れている新城という地域で暮らしていた。山が近い景色の中で暮らしていると、四季折々の印象が胸の中にしみ込んでくる。子どもの小さな胸に頭に、自然の変化は鮮やかな印象を残していた。川は、清らかに澄んで底の底まで見え、鮎は光りを弾いてキラキラしていた。天の川は、太い帯になって空に横たわっていた。秋の色に染まる山は静かに、悲しく、優しかった。春、田んぼのレンゲは風に揺れていた。夏の蛍は、川一面に広がって緩やかに動いていた。冬、窓が白く輝いた朝は、窓を開けると真っ白な世界が目の前に広がった。
ふるさとには、豊かな自然があった。しかも、この景色はほとんど今も変わらない。

ぼくにとって、ふるさとの景色は、今住んでいる笠田という地域ではない。13歳からこの地域に住んで、この地域の景色に馴染んできたのだけれど、新城を離れ40年という時間をこの地域で過ごすことになったのだけれど、ふるさとという言葉とともに胸に広がるのは、どうしても新城の景色になる。高野町から新城に入る最終カーブを曲がると、視界が開け、新城の景色が目の前に広がる。その度にふるさとという言葉が胸に広がってくる。

コンクリートジャングルがふるさとだという人もいる。でも、時間の変化とともに、子どもの頃見ていた景色は大きく変容してしまうことも多い。自分の記憶にあった町の景色が、数十年ぶりに訪れると記憶に重ならないのは悲しい。こうなると自分の胸の内にある景色が、ものすごく不確かなものに変化してしまう。
子どもの頃と変わらない景色の前に立つと、子どもの頃の思い出が溢れてくる。そういうふるさとを持っている人は、自分の生きてきた確かさを確認できるような気持ちになるのではないだろうか。そういうふるさとを持っている人は、一つの幸せの形を胸に秘めている。子どもの頃の思い出が、自然の中によみがえる。友だちがいて、従兄がいて、妹がいる。母の笑顔もそこにある。先生も笑っている。

山は青きふるさと
水は清きふるさと

恋しやふるさと
懐かし父母
夢路にたどるは
故郷(さと)の家路

雑感

Posted by 東芝 弘明