核兵器禁止条約の発効の前に
核兵器廃絶の課題や考え方の根底には、広島、長崎に投下された原子爆弾によって何が引き起こされたのかという事実を据えるべきだと思う。人類と核兵器という問題を考えるときに、実際に引き起こされた惨状から考えを出発させる必要がある。60歳のぼくも戦後生まれた人間だから、広島、長崎に行って原爆記念館を見て、原爆についての文学作品や記録映画や映画を見て学ぶ必要がある。
人間は、歴史的に残されたものから学んで、自分に引き寄せて、体験していないものを追体験するように努力すべきだ。体験していないから分からないというのは、学んでいない証でもある。もちろん、学ぶことは簡単なことではない。自分の中に知識だけでなく、感性的にも感じ取る努力をしないと非体験のことを血肉化できない。
文学は、未体験のことを文字だけで伝えようとする。峠三吉の詩などには、原爆体験が文字だけで伝わってくるものがある。核兵器廃絶という願いの根底にあるのは、被爆者の体験と思いだろう。核兵器は非人道的な兵器。使用することも禁止しなければならないというこのシンプルな思いが、日本の運動の核にあり、それが世界に広がってきた。この力が、核兵器禁止条約へとつながっている。多くの国がこの条約の発効に署名し、国際条約として成立しようとしているのは、戦後75年の日本の核兵器廃絶の運動の一つの帰結だろう。日本の国民の運動が全世界を動かしたということだ。
日本の原水爆禁止運動がなければ、核兵器禁止条約はなかっただろうと思う。このときに被爆国日本の政府は、核兵器を保有する国がこの条約に参加していないと言って、日本は唯一の被爆国として核保有国と非保有国の橋渡しをするという薄っぺらい理屈をこねてこの条約に背を向けている。75年間の被爆者の方々の思いをまっすぐ国際社会に届け、人類と核兵器は共存できないことを訴えて条約への参加を求めることここそが、本当の橋渡しではないだろうか。政府は、薄っぺらい理屈を語るのに熱心で、肝心の被爆者の体験、広島・長崎の惨状を伝えない。核兵器廃絶の原点から核兵器の使用禁止を求めないのは、被爆国としての責任を果たしていないのではないだろうか。
国連で日本の国は、被爆国としての役割を果たしていないとみられている。この条約に参加しないことによって、日本に対する失望が広がっている。日本はアメリカの手下だという見方も多いだろう。
全国の自治体は、広島・長崎の2人の市長の発言と政府の発言を読み比べるべきだろう。どちらが真実を語っているのか。
1月22日には、核兵器禁止条約が発効される。核兵器の使用が国際条約によって禁止される。歴史は前に動く。この条約によって、人類滅亡の可能性はかなり緩和される。将来、核保有国だけが反対しても、その他の国が核兵器禁止条約を批准したら、核兵器は二度と使えなくなる。そうなることを願っている。その方向に向かって新しい歴史が始まる。










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