「琉球処分」のことを調べてみたくなった
会議で「琉球処分」の話が出された。はずかしながらことの経緯を全く知らなかった。調べてみると明治維新以降、沖縄の帰属をめぐって廃藩置県にいたるまでの間に一連の経過があった。琉球王国は、昔から交易の要所となってきたので、清国や日本と交流が深かった。清国には朝貢を行ってはいたが、薩摩藩殿関係の方が深く薩摩藩の管轄で幕藩体制に組み込まれていた。明治政府は、政府との関係で琉球王国を琉球藩に、その後廃藩置県のときにはまず琉球は鹿児島県の管轄となったが、1879年には沖縄県となった。
日本大百科全書(ニッポニカ)には、こう記されている。
近世の琉球王国は三つの性格をもっていた。第一は、薩摩(さつま)藩を直接の管理者としつつ幕藩体制の一環に明瞭(めいりょう)に編成されていたことである。第二は、諸藩と異なり中国(清国)との間に伝統的な外交・貿易関係をもっており、国王は皇帝の冊封(さくほう)を受け、定期的に皇帝に進貢(朝貢)を行っていたことである。そして第三は、独自の王国体制をもって領内を直接的に経営していたことである。こうした状況を「日支両属」と指摘する研究者が多いが、最近では「幕藩体制のなかの異国」と規定する見解が有力になりつつある。というのは、日本・中国両国に属したとはいっても、日本(幕藩体制)への属し方はより実質的であり、中国への属し方は形式的側面が強かったと評価されているからである。
明治維新により近代国家がスタートすると、当然のことながら琉球の位置づけが問題となった。領土確定問題としても琉球の処遇は一大案件であったが、明治政府は明確な方針をもたぬまま1871年の廃藩置県に際しては琉球をひとまず鹿児島県の管轄とした。同年11月、琉球内の宮古(みやこ)島民69人が台湾に漂着し、うち54人が現地住民に殺害されるという事件が発生した(宮古島民遭難事件)。この事件をきっかけに政府は琉球問題の決着に本腰を入れ、翌72年に琉球使節を来朝させ、琉球国王尚泰(しょうたい)を琉球藩王として華族(侯爵)に列し、琉球王国を琉球藩とする旨宣告した。そして琉球藩の管轄を外務省に移した。74年、政府は琉球藩民に対する加害への報復措置として台湾へ出兵、事変処理にあたって中国との間で取り交わした北京(ペキン)議定書のなかで被害者を「日本国属民」と認めさせ、賠償金を払わせることに成功した。これら一連の措置は、琉球が日本の領土であり、その人民が日本国民であることを内外に印象づけるためにとられたもので、琉球藩設置はきたるべき廃藩置県への布石として位置づけられていた。[高良倉吉]
会議ではこれをどのように見たらいいのかということだった。「琉球処分」については、いろいろな評価があるとも書かれている。上に紹介した日本大百科全書の解説も一つの見方だろう。歴史的な事件をみるときには、その歴史的経過とともに、その事件を通じて後の歴史にどのような影響を与えたのかという視点からの評価が必要になる。歴史は、さまざまな力関係の中で糸のように編まれるし、同時にそれは立体的でもあるので、評価というのは難しい。まずは、1972年の祖国復帰のためにたたかった瀬長亀治郎さんの本『民族の悲劇 沖縄県民の抵抗』『民族の怒り もえあがる沖縄』『沖縄からの報告』3冊を注文した。この3つの本が琉球処分に対してどれだけの記述があるのか、全く分からないが、沖縄のたたかいを踏まえた上で「琉球処分」についても知ってみたいと考えた。
事実を踏まえて考えるという努力をしたいと思っている。自分の意に沿わない事実を大事にする姿勢を取りたいとも思っている。話は全くそれるが、6月の一般質問で中学校2校と小学校1校を取材した。テーマは女子トイレに生理用品を設置してほしいというものだった。1校は「女子トイレに設置してもらうことに賛成」というものだったが、他の2校はそうではなかった。取材をして、「自分の都合のいいように事実を切り取ってはならない」と思った。この事実を踏まえてどう考えるかを大切にした。もちろん、女子トイレへの生理用品の設置は提案するが、学校現場の意見の違いやニュアンスの違いを汲み取って、納得のいく形での提案をしたいと考えた。力点は、子どもへのアンケート実施に置いた。その中で女子トイレへの生理用品の設置を提案した。もちろん、取材の結果が一様でなかったことも、質問の中で率直に紹介した。
「琉球処分」という問題をどう見るかという場合も、事実にもとづいて考えるという姿勢が最も大切になる。事実を踏まえて事実の中を楽しく歩き回るのが、マルクスとエンゲルスの立ち位置だった。これと同じようなことをしてみたい。それは、沖縄の歴史の中で「琉球処分」を考えるということにもつながる。読み解いていく一つのヒントは、複雑な歴史があったのに、沖縄県民はどうして、日本への復帰を強く求めたのか、そのエネルギーはどこにあったのかということにつながるだろうと思っている。
ウクライナは、ぼくたちがよく知っているロシア民謡の地でもあるという。多くの国に併合された歴史があり、ロシアがウクライナはロシアの一部というような根拠が一定成り立つような側面もある。ロシア系の人も多くいる。しかし、ウクライナは長い歴史をかけてウクライナという国家を形成した。これは一つの悲願だった。民族には自決権が存在するが、どの国家に帰属するかは国民の政治的な自由だという側面がある。沖縄県の歴史を紐解いていくと、新しいものが見えてくるような気がする。










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