音楽に対する感覚の違い
家族3人で和歌山城ホールで行われた森山直太朗さんの弾き語りコンサートに行ってきた。2階席から見ると森山さんの顔は、オペラグラスなしには確認できないほど小さかった。音楽の素養のないぼくと妻、娘の感想は全然違う。妻と娘2人は、弾き語りの良さを熱く語り合っていた。
「演奏と歌の一体感がすごかった」
「ギター演奏が声と一体化して聞こえてきた」
2人はこんなことをのたまわる。こんな感想はぼくからは出てこない。音楽的な感覚は、演奏できる人間とできない人間を峻別していく。感覚というものは、小さいころから音楽と共に生きてきた人間とそうでない人間との間に明瞭な差を生み出す。絶対音感と相対音感、和音に対する感覚、メロディラインについての感覚、楽器の演奏についての感じ方もぼくとはまるで違う世界を感じ、音を聞き分けている。
味覚のわかりにくさと音への感性の違いは如何ともし難い。ぼくの味覚音痴は、葡萄の藤稔とピオーネの違いを見抜けなかったところから始まり、コーヒー豆の良さや違いを見分けられないことによって、娘にレッテルを貼られたものだった。今日は、音楽的な蓄積の違いによって、ぼくには辿り着けない領域での感想を見せつけられた。この差は埋まらない。
森山さんの歌とトークには、聞き取りにくい箇所があった。63歳にもなると聞き取る音の範囲が狭くなって、普通の人が聞こえているのに「聞こえない領域に聴力が落ちているんだろうな」と、思いながら歌や話を聞いていた。
コンサートが終わってから、歩道を歩き駐車場に向かう通路で娘が声を張って言った。
「声もファルセットもロングトーンも綺麗だったけれど滑舌が悪かった」
「そうやね、滑舌悪かったよね」
妻が答えた。
「ええ、そうなん。おとうが歳取ったから聞こえにくかったと思ってた」
なんだかホッとした。ぼくが聞き取れなかったのは加齢のせいではなかったようだ。









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