研究の方法としての弁証法

雑感

弁証法についての自分なりの整理をしてみた。

弁証法的な3つの見方と弁証法の一般法則

弁証法的な見方には3つあると説明される。
①は連関と連鎖の中で捉える
②は生成・発展・消滅の過程の中で捉える
③は不動の対立や固定した境界線を認めず、物事にある対立した側面や契機を見落とさないこと。ある場合にはこの対立が変革の原動力となる。

この見方の上に立って、弁証法の一般法則(対立物の統一、量から質への転化、その逆の法則、否定の否定)を学び、その次に認識論におけるカテゴリー論を学ぶのがいいと思う。

研究の導きの糸としてのものの見方

物事を肯定的に理解しつつ、その物事の具体的な連関や生成や発展の運動を捉える努力を行うこと、この努力を通じて物事の内部にある対立や固定した境界線がないことが見えてくれば、ようやく研究を通じて弁証法的なものの見方に接近できたといえる。弁証法的な3番目の見方というのは、具体的な事物の連関や生成・発展の姿を把握する中で見えてくる。一定の研究の末に見えてくる3番目の見方も含め、この3つの見方にもとづいて具体的に事物を研究することが重要になる。弁証法的なものの見方は、具体的な事物の研究方法の基本として重要な地位を占める。

弁証法的なものの見方の核心は3番目の見方にあるが、これは研究の出発では簡単には見えない。研究の結果として3番目の見方が浮き彫りになることが多い。

具体的な研究の成果としての弁証法

弁証法は、研究の成果として見えてくる。弁証法的な法則は研究の出発ではなくて成果である。研究が進めば進むほど、政治や経済、自然科学、心理学等々の分野において、次第に弁証法的な関係が見えてくるのは、事物が弁証法的に存在しているからに他ならない。事物が複雑な形状をして、見事に綺麗なカーブを描いているのに、そのカーブにそった認識を得ないで、これこそが弁証法だといって、「自称弁証法」という刀で事物を裁断して、「ここに弁証法あり」と言っても、それば詭弁にしかならない。

物質の統一性こそがすべての根源

弁証法は、必然的に唯物論と結びついた。物質が生まれ、物質の発展として精神が生まれた。精神がどのようにして歴史的に生成されたのかという整理がなされたことによって、物質と精神との混乱に終止符が打たれた。このことによって、弁証法は神秘のベールを脱いだともいえる。
客観的な事物が弁証法的に成り立っているのは、物質の本質が対立物の統一という形で階層的、重層的に成り立っているからに他ならない。物質の世界が弁証法的に存在しているのを反映して、物質の働きの発展として生成してきた人間の精神も、弁証法的に成り立っていることが見えてきた。それは見事に統一されていると言っていい。物質の運動法則と精神の運動法則に親和性があるのは、物質の統一性にこそ、その根源がある。

Appleは、テクノロジーの進化によって目の前で起こる技術が、まるで魔法であるかのようなものになることを繰り返し語ってきた。MacとiPhone、iPadなどによって、私たちの目の前で魔法のような技術が展開している。しかし、それは魔法でも何でもない。テクノロジーの物理的な発展によって生み出された根拠のある魔法である。
唯物論の立場に立って、事物の法則を解明していくと物質の魔法のような関係性が見えてくる。対立物がダイナミックに相互転化しながら形態を変化させている事実は、人類が過去から受けついで物語として語ってきた「奇跡」を凌駕しつつある。魔法は物質の中にあるようにさえ見える。


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雑感

Posted by 東芝 弘明