笠田まつりと共産党のイベントが重なった
昨日は笠田まつりの前日準備に参加した。区長会と公民館主事、それ以外の人が数人いただけだった。
「これは、これは」
こんなことを続けていると笠田まつりの存続も危うい。
イベントでも何でも、歴史が重なってくると、内容が伝わらなくなっていく。形だけが引き継がれてしまう。そうなると危うい。一つの危機が始まる。
笠田まつりは、笠田駅前で「花の市」という形で始まったもの。夜店の賑わいがなくなり、復活したいという思いの中で、笠田東1の自治区の中の有志の方々が立ち上げて始めたものだった。東側の笠田駅前の大通りを1日限り、歩行者天国にして、北側の一番奥に舞台を設置してにぎやかに始めたのが出発だった。ぼくはまだ議員として1期目だったので、結婚もしていなかったし30歳そこそこという年齢だった。その頃、まだ夏は今のように暑くはなかった。
この形で何年イベントが続いたのか、記憶は曖昧。おそらく4回ほど続けられたイベントは、残された財産を受け継ぐ形で、笠田地域の区長会が引き継いで「笠田まつり」という名称を得て、再出発したというのがぼくの記憶だ。
コロナの数年を経て、まつりの形が、記憶と記録に基づいて再生されたが、イベントを支えていた精神的なものが継承されていないようだ。こういう状況で続けていくのは、かなり危うい。
このまつりを自治区長会が受け継いだとき、その中心に「子どものため」というものがあった。全ての世代が、子どものために一堂に会して、さまざまな交流を行うというのが、笠田まつりの一番中心的な精神だった。それは、夜店を一夜だけでも復活させたいという「花の市」の精神とつながっているものだった。
若い世代が、さまざまな思い出を笠田まつりを通じて、共有して、次の世代にそれを渡していくために、イベントの中にその精神の縦糸を通す必要があるだろう。そのために何をまつりの中に組み込んでいくのかを、議論し直す必要がある。
ぼくの妄想を書いておこう。
新しい試みとして、文化的なものを盛り込む努力が大事になるのではないだろうか。美しいきらめきのようなシンボリックなものを組み込む。それは光の演出でいいかも知れない。花火はないが、笠田まつり独特の光の演出が組み込まれると印象が変わってくるのではないだろうか。あんまりお金と負担をかけないで、できることはないか。海南市に光を自在に選出してくれる会社と人がいる。その人の力を借りるのがいい。そんなことが浮かんできた。

ぼくは、今年初めて本番の笠田まつりの参加できなかった。
日本共産党の前参議院議員をお呼びして、紀の川市で「トークライブwith大門みきし 失われた30年と日本共産党の経済提言」というイベントに取り組んだ。最初、和歌山1区と和歌山2区に挑戦する井本有一さんと楠本文郎さんの挨拶を受け、そのあと、大門さんと楠本さんによるトークイベントに移行した。質問に答える形で、難しいと思われがちな経済の話を大門さんに縦横に語っていただいた。
「失われた30年で失われたものは」という問いには「経済が発展しなくなって失われたものは暮らしの豊かさだった」と答え、
「賃金を引き上げたら物価も上がるのでは」という問いには「賃金を引き上げたら物価も上がるが、さらに賃金を引き上げてという好循環が生まれる。そうなればいい」と答え、「社会保障費が増えれば国が潰れるのでは」との問いには「社会保障は国民の権利だが、同時に社会保障は経済だ。社会保障が充実すれば経済も発展する」と言い、さらに「社会保障の充実はトランポリン効果を生み出す。病気になったり失業したりしても、社会保障の力で再チャレンジできる社会になる」と答えた。なかなか明快な答えだった。会場を移動しての「もっと日本共産党を知る会」では、3人日本共産党に入党してくださった。
なかなかいい取り組みになった。



