文章を書くのは面白い

雑感

一般質問の準備の前に、長期に渡って書きかけの状態になっていた小説を書き上げたら、次の作品を書きたくなった。それで、カフェでのお昼ご飯のときに、iPhoneのメモ帳にプロットを書いて、少しさわりを書いてみた。すると話が過去へ過去へと戻ってしまうので、書いている文章を組み替えて、時系列に並べ直した。

結局、当初予定していたプロットよりも、書くのであれば、前の時期を題材にした方がいいということが見えてきた。小説のど素人なので、まだ自分が主人公になっている。自分の至らなさをきちんと描くように心がけて書くと、当時見えていなかったことが見えてくる。情景を描きながら書いていると、その中で話しが生き生きと立ち昇る。

もちろん、書くことと記憶の再現とは違う。書いている世界は1978年頃〜1979年頃なので、46年も以前の世界だ。もう戻りたいと思っても、町並みも情景も失われてしまっている。記憶の中にある街の姿を文章に起こして、そこで生きている人間を描き始めるのは面白い。記憶に頼ると溝が埋まらない。記憶は断片なので、残っている記憶に至る細部はすっかり忘れている。それをどう繋いでいくかという点は自由であっていい。そもそもが史実の再現ではなくフィクションを描いている。情景を描写しながら物語りを描いていくと、フィクションの部分が溝を埋めてくれる。フィクションですというのはそういうところにもある。

書くと自分の体験にある程度、客観的な視点での再評価が含まれてくる。自分の至らなさをえぐり出して描くことによって、自分の弱さや課題も立ち上る。その当時、自分が抱えていた課題を、今の自分は克服したり、乗りこえたりしているのか、そういうことが見えてくるのも面白い。

小説をたくさん読んでいる妹に見せたら、「お兄ちゃんは何も分かってなかったんやな」という上から目線の意見が出てきそうだ。わが家の兄貴と妹は、話をしていると、物事の本質が見えているかのような物言いが出てくることが多い。そんなときは「一知半解」という言葉がぼくの頭に浮かんでくる。
「そんなこと、お前は分かってるんか」という突っ込みを心の中で言う。話の腰を折らないためにも、口に出して言わないのが花だとそう思っている。でもね、自分のことはよく分からないので、ぼく自身も知ったかぶりの、一知半解的なことをまわりに振りまいているかも知れない。怖い。自分が見えないということは。


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雑感

Posted by 東芝 弘明