どの時代を舞台として選ぶのか
一般質問の準備をしつつ、「民主文学」の短編の小説を何本か読んだ。作家が書いたものもあったが、小説を初めて書いた人もいた。何をどう書くのかという点で思ったことがある。年配の人が、今を描きながら過去に遡って現役時代の物語を書いたものが2本ほどあった。読みながら、現代を描かない方がいいのにと思ってしまった。時代設定を少し前の過去にして、それをリアルタイムで描いた方がいい。臨場感が違う。過去の話として書くのではなく、今の話として過去を書く方がいい。そう思う。
少し話はずれるが、日曜劇場の『海に眠るダイヤモンド』を楽しんでみている。この話は2018年の現在と1964年を交互に描いて行く。2024年ではなく2018年を現在としている。最後に2024年を描くかも知れないが、現在の設定を2018年としていることの意味は深く存在している。過去の未解明だった問題が、2018年という現在を通じて明らかになっていく。『海に眠るダイヤモンド』は、現在を、過去の回想の道具として描いている訳ではない。
年老いた主人公が、過去を回想して物語を書くためには、現在を描く深い意味が必要になる。そういうことがないのであれば、過去の時代を現在にして描く方がいい。その方が題材として鮮明になる。過去の出来事は、当時分からなかったとしても、今なら分かるということもある。それはある意味で過去の出来事を照らす力になる。しかし、そのような半ば神のような視点が、小説に入り込む必要があるのかどうか。それよりも過去を舞台とした時代の中で悪戦苦闘する主人公を、主人公の目から描いて、もがいた方が、作品として力をもつように思う。
どの時代(天)を選び、どの場所(地)を選んで書くか。その時代に生きた人間(人)を描くことを通じて、テーマに迫ることが大事であって、そこに現在の視点は必要ない。繰り返し書くが、現在の視点が必要であれば、現在を描く意味を押し出さなければならない。ぼくはそう思う。そうでないと年老いた老人の回想記になってしまいかねない。
ぼくが書いた処女作は、舞台を1977年にした。その時代の物語としてリアルタイムでそれを描いた。そこには2024年という現在の視点はない。主人公は1977年当時、高校2先生だった男の子。モデルは自分。その当時高校生だった自分が、何をどう感じ、どう生きていたか。それを作品としては追いかけた。自己満足かも知れないが、リアルに描くことを通じて、当時見えなかったことが見えた気がした。それは神の視点とは違うものだった。









ディスカッション
コメント一覧
神の視点、ゴッドアイですね。
『ヘドロン物語り』を思い出しますね。あれはどのトピックスだったかな。また読みたいなあ。自分の作品なのに忘れてしまった。
失礼致します。問題は思ったより複雑で歴史的ですらあるようです。以下、私の学生時代のテキストを抜粋します。坪内逍遥は小説神髄で、小説は人間心理を模写することが重要と書いた。二葉亭四迷は小説総論で、模写といへることは実相を仮りて虚相を映し出すといふことなり。と書いた。二葉亭四迷の実作、浮雲第一編は戯作からまだ抜け出せず、主人公の内面に入っていけない。第二編は語り手は主人公になりかわるかのように、内面心理を説明する。しかしこうした視点では、主人公以外の人物の内面には逆に立ち入れない。第三編はニュートラルな視点から書かれている。言文一致に近く、客観性を打ち出しやすいはずですが、一元的視点から主人公に密着した方が内面心理を打ち出しやすい。評価が高いのは第二編。詰まり、神の視点で全能的に各人物を裁いた方が客観性を打ち出しやすいが、一方で一元的視点、即ち此処でのトピックにあります当時の自己の視点ですか、主人公に密着した方が内面心理を打ち出しやすい。という矛盾に突き当たるということらしいです。坪内逍遥、二葉亭四迷、森鴎外は作者のイデーと現実の模写との関係を論じていた。この両者を共に実現する方法がいかにして可能かということが、近代日本文学の問題であったらしいのです。
引用 近代の日本文学 野山嘉正 安藤宏
登場人物の多い作品を読んでみようと思っています。どういう視点で文章を書いているのか。主人公の心の中を表現する一人物固定の描き方が、情景を描くときを含め、その人物の視点で書くというのが、今の主流だとも思います。登場人物の内面には入らず、しかも神の視点でも書かず、客観的な描写だけで描いた作品もあろうかと思います。
昔の作品は、神の視点をもって物語を描くことも多かったようです。登場人物の運命を知った上で、物語を綴るということになりますね。
「ヨハンは、パンを一つ盗んだこの行為と事件が、その後、ヨハンを奈落に突き落とすことになるとは思いもしなかった」というような書き方です。過去の話を何もかも知っている人物が語るみたいな感じです。
中には2人の人物の内面に踏み込んで書く場合もあるようです。その場合、その二人が同じ場所にいたときにどうするのでしょうか。
内面を描く人物を1人に定めたときに、注意しなければならないのは、その人物がいない場所での出来事を自由に描くことができないということが起こります。
テレビドラマでも、一人の視点で描くドラマもあれば、主人公の知らない場面を描く場合もあります。小説と違うのは、すべて映像で見せるということです。謎解きや内面の描写は、台詞による「告白」になることが多いですね。2時間物のサスペンスでは、崖の上で真相解明することが多いですね。
もっと凝った「半沢直樹」のような作品では、謎解きのシーンが、相手のあこぎな計画を暴露して追いつめるシーンとして描かれています。重役会議で、上司である香川照之を土下座させて謝らせるシーンが、視聴者の注目を集めました。
映像で描かれているときに、登場人物が何を考えているかは、なかなか定かではない。見ている人は、俳優の表情や仕草、行為を見ながら、心理状態を読み取るという形になります。そこにはかならず「謎」が生まれますよね。それをときどき解き明かしながら進んで行く。小説と映像作品の違いが、こういうところにあります。
テレビドラマでは、主人公だけ内面の心を自分が映っているシーンで、心の声を映像に重ねて出すこともあります。
小説の場合、地の文で主人公の感情やおかれている状況を書き込んでシーンをつなぎますが、映像作品ではすべてシーンでそれを表す必要があります。内面描写の優れた文学作品を映像化する場合、どういうシーンを生み出して、原作を再現するのか。シナリオが原作から離れる理由も、そういう所にあると思います。
読みたいです。