会議の運営について

雑感

Spring has sprung by 'DRIN

齊籐孝さんの『会議革命』をもう一度読み直したいと思いはじめている。会議を運営するのは難しい。こっちがいい会議になったと思っていても、参加した人が「発言しても、何にもならない。提案しても原案がそのまま通ってしまう」と思っているケースも多々ある。
「発言しにくい」という会議も多い。
どうすれば、会議で自由自在に発言が行われ、会議に参加した人が充実した感じになれるのか。
一年前に齊籐孝さんの本を読んで感銘を受けて、自分が運営している会議には生かしてきたと思っている。しかし、そういう風な運営になっているのは、一つの会議だけであって、他の会議ではなかなかうまくいっていない。

最近、強く思ったのは、主催者にとって、好ましくない感じの発言や提案を含んだ発言をどう取り扱うべきかといことだ。
結論を書くとそういう発言を聞き流したり無視してはならないということだ。これがものすごく大事だと思っている。
こういう発言を聞き置いて「他の人、ご意見はありませんか」と他の人の発言を促し、他の人がその発言に関わらない発言をし、この発言を軸にして議論が進んでいくようになると、最初に発言した人の意見が結局は無視されたことになってしまう。

会議の進行係は、苦言や提案をやり過ごして会議を進行できるような、場の仕切り役としての力をもっている。しかし、最初の発言を聞き流してしまうと、発言した人は、自分の発言が無視され、かなり大きな不快感をもつ。
議会では、12分の1の議員の賛成があれば、議案の修正権を行使して、修正議案を出すことができる。議案提出権を行使して修正案を議会に上程すれば、提出者による趣旨説明が行われ、質疑、討論、採決に付されることとなる。ここには、湖の底の底まで澄んでいるような明快さがある。

世間一般におこなわれている会議では、原案に対する修正権は極めて曖昧だと思われる。
原案に対する修正権なんて、考えたことのない人の方が多いかも知れない。曖昧なのでうまくいっていないけれど、本当は、ルールが全く明記されていない会議では、構成員1人1人に修正権がある──これが結論だろう。
つまり、1人の委員が苦言や提案を含んだ発言を行えば、その発言はみんなに図られて、議論の対象にされ、成否を決めるべきだということだ。曖昧にしたいのが人情だろう。曖昧にファジーにやり過ごすと、結局は、その人の意見を否定することにしかならない。成否を決めるといっても採決を行う訳ではない。意見が出されるなかで合意に達すればいい。少ない人数であれば、阿吽の呼吸で決着がつくことも多い。
会議の主催者にとって、会議の意義を否定したり提案に真っ向から対立するような意見というものは、受け入れがたいに違いない。だからこそ、いきなり説得を試みることになる。でも、会議に参加している人から見れば、意見をいったら主催者に反論されるということになる。出てきた意見に対し、会議のメンバーに意見の成否をゆだねないで、執行部が説得を繰り返すと、意見が出なくなり、不満が組織に中に沈殿する。
異論や反論は、質問という形で出てくることも多い。提案に対して何か質問はありませんか、と発言を促し、出てきた質問に対し答えることを通じて、結局は説得してしまうこともあり得るようにさえ思う。こういうことも考えものだと思われる。

合議制の会議というのはものすごく多い。しかし、合議制を採用しているということは暗黙知になっている。
合議制を暗黙知にして運営されている会議では、みんなが自由に発言し、合意に達することがなによりも重要になる。そのためには、一人ひとりの発言が、組織の決定に生きなければならない。会議で発言を尊重されるということは、頭ごなしに発言が否定されないということである。1人の発言が、全体の意思の決定になることを通じて、会議に参加した人がようやく会議の主人公になる。
このような会議運営は、理想だけれど、現実の会議の中で本当にそういう運営が貫けるのだろうか。この理想的な運営を実際の会議でどうすれば実現できるのか、ここに問題の核心がある。
『会議革命』の再読は、この問題への答を用意しているように感じる。

議会で活動してきて思うのは、議会というがんじがらめのルールの中で運営されている会議が、ぼくが参加している会議の中で、最も民主的だということだ。もちろん、改善すべき閉鎖的な問題は数多く存在する。
しかし、一定の人数があれば、議会を招集することができ、議案の提案ができる。修正の方法も確立している。請願・陳情の取り扱い方、報告の取り扱い方、議案の取り扱い方などについても細部にわたって規定がある。一般質問という議員の側からの政策提案の機会を設けていることの意味も大きい。これは、一人の議員の質問が行政を動かすことのできる仕組みの一つだろう。ルールがあるからこそ自由がある。
普通の会議には、一般質問のような機会は極めて少ない。
会社にはあるかもしれない。新しい企画の提案、プレゼンテーションは、一般質問に似ていると思われる。提案が採用されると新たなプロジェクトが立ち上がる。通常の組織でも、個人の提案が生きるシステムをつくる必要はあるかも知れない。
「今日は、まず○○さんからの提案を受けます」
こういうことがよくおこなわれて、組織が活性化していくことも考えるべきだろう。

最後にわが役場の庁議について、言及しておこう。
役場の会議では、町長に権限が全部集中しているので、町長を頂点とした庁議と呼ばれる会議は、課長による報告に対し、町長が判断を下すということになってしまう。町長が、課長の知恵を引き出して集団で物事を決めたいと願うのであれば、庁議という会議のルールを確立する必要がある。そういうことを決めないで、会議を行うと、生きているのは日常業務の決済のあり方だけなので、どうしても御前会議というものになってしまう。これでは、集団の知恵は出てこない。

町長の決裁権をどう扱うかということが、会議の改革のカギを握っている。庁議によって集団の知恵を発揮するためには、町の決裁権を庁議に限っては外す必要があるだろう。ただし、日常業務で決裁権の集中が行われているので、庁議でそれを外したからといって、その庁議が民主的な会議として機能するまでには時間がかかる。
町長の運営する会議の中で、庁議の性格を変えるということは、庁議を合議制の強い会議にするということだ。町長には拒否権があるようにするのも一つの方法かも知れない。こういう拒否権がないと町長が課長の多数意見に常に引きずられてしまうことになる。これでは大統領制の意味が損なわれてしまう。
課長と町長は対等平等ではない。もちろん人間としては対等平等だが、町長は選挙で選ばれた大統領であり、行政の長としての権限は、法律によって成り立ってる。この組織内の関係を保持しつつ、民主的な会議運営を行うためには、その会議についての明確なルール作りが必要になる。
課長によるプレゼンテーション、課長相互の討議にもとづく意思の決定、町長の判断、こういうものが会議のルールとして確立するということと、庁議で行われた発言については、日常業務でその発言に対する責めは受けないというルールも確立すべきだろう。上下関係が鮮明な組織において、会議で自由な発言を組織したければ、このようなルールは非常に大事になってくる。

このような考え方は、ぼくの勝手な考え方だ。しかし、こういう方向で改善を図らないと行政組織における集団の叡智の結集は実現しないだろう。このような改善は、おそらく橋下徹流の改革とは、全く正反対な改革になる。

雑感

Posted by 東芝 弘明