再び文章について

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再び文章について。
文字を使って事実を描写しようとするということは、数多くの事実を捨てながら、同時に主観的に大切だと思われることを文字で表現して描くということに他ならない。
文字で表現するということは、その物事を書き手なりに規定することだ。
規定性は否定性を含む。A=Bだと規定するということは、B=Cでない場合は、A=Cではないということである。
規定(描写)は、正確に事実を写し撮ることがむつかしいので、事実からずれていることの方が多い。
どんなに努力してもなかなかうまく描写できない。ここに書き手の大きな苦悩がある。
しかし、文字による表現は別の事柄を生み出す。
描写する対象を文字で表現するという行為は、事実とは別の、文字による世界を構築する。
文字には、文字のもつ独特の流れや韻がある。
日本語には日本語のもつリズムと韻があり、英語には英語のリズムと韻がある。
書き手は、そのことを感じながら文章を書く。文字で対象を描写すれば、そこには文字独特の世界が生まれる。事実を写しとる努力は、文字によって別の世界をつくることに等しい。
文字による独特の世界は、事実から遠く離れる場合もあるが、ときには、事実と離れていくようにみえながら、文字のもつ独特の力によって真実に肉薄していくときもある。文字化することによって、らせんを描くように次第に真実に接近する場合もある。
このことを考えていると峠三吉の「序」が浮かんできた。

ちちをかえせ
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ
わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ


この詩を読むとぼくには、広島の町でのたうち回りながら死んでいった人々の慟哭が聞こえるような感じがする。
人間のうめきが聞こえる。
ひらがなで書かれたことにも深い意味がある。ひらがなに三吉の強い意思が込められている。
この詩は、文字によって事実を切り取り、文字の力で真実に肉薄した作品になっているように感じる。

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Posted by 東芝 弘明