宝来山神社のおまつりと新城の交流センター竣工式
朝4時40分集合で宝来山神社の秋まつりが始まった。真和自治区は、日曜日の朝、全ての町内会を回って宝来山神社に餅みこしを奉納に行く。ぼくは歌い手一人として、餅みこしの巡行に参加した。歌はなかなかうまくならないが、それでも何度か歌いながら宝来山神社に登った。
昼食が始まったときにおいとまして、午後から新城で行われる地域交流センターの竣工式に出席した。町長と県会議員、議長と天野在住の議員、新城出身のぼくに来賓の招待があり、出席させていただいた。
小学校の職員室と図書室があった2階建ての建物は解体され、新しい建物が建てられた。この新しい建物は改修した教室と結合されて、新城小学校は全く新しく生まれ変わっていた。ぼくが残してあっただろう痕跡は、すっかり綺麗になくなっていた。
玄関をくぐると、正面に流しの備え付けられた部屋があり、玄関の右手に男女トイレと障害者用トイレがあった。昔の教室に行く廊下は綺麗に改修されており、3つの教室は2つになって、大きな部屋は教室2つ分をぶち抜いて作られていた。1,2年生と3,4年生の教室が舞台のある、ダンスの練習できる部屋になっていた。自分の踊っている姿を鏡で確認できるように鏡がはめ込まれていたが、この鏡は、ぶつかっても割れずにたわむ材質で作られていた。
5、6年生の教室は展示室になっており、そこにはN区長の人間関係によって寄附していただいた大きな絵画が10点展示されていた。現在の画家の中で有名な第一線で活躍している作家やN区長の師匠に当たる方の作品(この方は数年前に死去)もあった。「現在に生きる人間が何を残せるのか考えた結果、それは絵画だった」という区長の考えによって、このギャラリーは作られていた。
小学校の時代、ぼくの母親がこの学校の教員だったので、ぼくにとって小学校は自分の家の延長だった。母親と一緒に学校の宿直室(?)に泊まったこともあったし、用務員の部屋にあった五右衛門風呂に入ったこともあった。
職員室や校長室が日曜日の遊び場だったこともあったし、母親が家にいないときは、学校に行けばいるだろうと思って5分ぐらいかかる田んぼのあぜ道を歩いて学校に行ったことが何度もあった。自転車に乗ることがなかなかできなくて、癇癪を起こしたぼくは、職員室にいた、自転車に乗れない母親を困らせたこともあった。
ぼくの子どもの頃は、かつらぎ町の笠田方面から新城に行くことはかなり困難だった、新城への町職員の出張は宿泊を兼ねたものだった。今は20分で到着できるようになったが、その当時は、かつらぎ町から高野口町に行き、九度山町まわりで高野山有料道路を通って高野町に入り、そこから新城に行くというルートが一般的だった。新城からの歩きだと、南海高野線の紀伊細川駅まで歩き、南海高野線で橋本駅まで出て、国鉄和歌山線に乗り換えて笠田まで出る必要があった。徒歩と鉄路で笠田に行くには、半日はゆうにかかるものだった。
夜、校長先生も教頭先生も教職員の宿舎に泊まることが多かった。町職員が出張して泊まるときには、学校でシイタケを焼いて食べたりしていた。そこにぼくも行って、白黒テレビでプロレスを見ながらシイタケのお相伴にあずかったことも何度かあった。
ぼくにとって、新城小学校は、学ぶ場所でもあったし、遊ぶ場所でもあったし、生活にかなり密着した場所でもあった。
建物が新しくなって、前の教室のイメージはなくなっていたけれど、窓の外から見える景色は、木が大きくなっただけでほとんど変わっていない。小学校の教室の枠組みは変わっていないので、建物が新しくなったとはいえ、教室だった部屋に入ると教室で過ごしていた日常のことが蘇ってくる。
新しい建物は、そういうことを思い出させてくれた。
竣工式では、新城ソーラン組のダンスがあり、そのあと区長と町長、H県議会議員の挨拶があった。記念行事として浦部陽介のミニコンサートが行われた。来賓紹介のときに口を開いて思い出を語ると、言葉が出なくなるので、ぼくは「おめでとうございます」としか言えなかった。「とうしば」、と紹介されたのを「ひがししば」と言い替えることもしなかった。新城小学校は北側の山を背に眼下に貴志川が見え、川の向こうの南の山が見えるところに立っている。山と山とに囲まれた狭い空間の中にある教室には、四季折々の変化が染み込んでいた。新城小学校の校舎で学んでいた子どもたちの胸の中には、四季折々の季節の変化が入り込んでいる。胸の中に季節の彩りを染み込ませて育った子どもたちは、新城小学校の記憶を胸の中に折りたたんで、ふるさとから離れて生活している。
「そうだ、この施設を使って同窓会をしよう」
そういうことを思いついた。
明日は、広域の議会がある。夜はこの議会の準備を行う。












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