批判を受け付けない政府になりつつある
ようやく橋本市のビラが形になった。次は紀の川市の葉書と広報を作る。議会の準備も迫ってきた。会議の準備もしないといけないし、集金もしないと。3月4日から議会が始まるのでそれまでにかなり目処を立てないとうまく行かない。
思っていることとできることのギャップが大きい。
菅官房長官が、2月26日の記者会見の場で、東京新聞の望月衣塑子記者からの質問に対し「あなたに答える必要はない」と言い、答弁を拒否した。また、望月氏の「政府が主張している事実と取材している側の事実認識がちがうことはあって当然だ」「政府のいう事実こそが事実として今後他のメディアにも抗議文を送るのか」という質問に対し、「事実と違う発言をした社のみだ」と答えて、他社にも抗議文を送ることを否定しなかった。27日には、26日の質問に対して真意を問われると、記者会見は「意見とか要請に応える場ではない」、「政府の見解を申し上げ国民に理解して頂く場」と答えた。
菅官房長官のこの姿勢は、一貫している。しかしこの態度には重大な問題が含まれる。
新聞社やメディアという組織には、知る権利は保障されていない。しかし、国民には知る権利が保障されている。それは表現の自由を規定した憲法第21条によって導き出される。表現の自由に対する憲法規定はこうだ。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」
表現の自由を保障するためには、国民主権に立脚する政府や行政の機関は、国民に対して情報を開示する責任がある。情報公開法(「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」)は、次のように目的を書いている。
「第一条 この法律は、国民主権の理念にのっとり、行政文書の開示を請求する権利につき定めること等により、行政機関の保有する情報の一層の公開を図り、もって政府の有するその諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにするとともに、国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする」
国民主権のもとで、行政の仕事に基本的にはタブーがあってはならない。すべての仕事は、国民主権を実現するために存在しており、情報を積極的に公開して、「政府の有するその諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにする」となる。
国民の自由な意見の中には、誤解や不理解も起こりうる。またまっとうな批判も起こるが、それに対しては、
「国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする」と書いているので、政府はていねいな説明を行う責任がある。
新聞記者は、国民の知る権利を自覚して、国民の中にある意見を踏まえ、政府に対して質問している。これは当たり前だ。ぼくたちのように和歌山県で働いていて、東京にはなかなか行けないし、まして新聞記者でもないので菅官房長官に直接質問できない位置にいる。こういう仕組みの上で記者会見は成り立っているので、新聞記者の質問には、国民の声が反映していることを自覚し、官房長官が答弁するのは当たり前だろう。
事実にもとづかない質問に対して、新聞社に抗議文を送るというのは、一体何だろう。新聞社は、黙って政府の言い分をスピーカーのように伝えるべきだとでもいうのだろうか。
こういうことを理解できない政権が、文書の改ざんや隠ぺいを重ねてきた。公正・公平であるはずの統計でさえ情報操作を行っている疑念が生まれている。一方でこういうことを行いながら、もう一方で新聞記者の質問を封じるのは、極めて異常な事態だと思われる。
この問題は、メディアの根幹に関わる問題だ。黙っていたら戦前の日本に繋がっていく。
戦前の日本は、もう一歩進んで「こう報道しろ」という検閲を行った。しかし、事実でない質問に抗議をし、さらに事実でないと政府が判断した記事に抗議を行うところまで行くと、事態は新たな次元に入る。菅官房長官の発言の先にあるのは「検閲」ではないだろうか。
政府の認識とは違う質問が出たら、誠実に答える責任があるという原則を確立しないと、日本のメディアは完全に死んでしまうと言わなければならない。









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