議員活動の根底に科学的な哲学を

雑感

日本共産党の議員にとって、「しんぶん赤旗」に書いていることは「結論」ではない。「赤旗」の記事は、記事を出発にして、さらに調べることによって、自分のものにする過程の中にある。山登りに例えると、記事が8合目のものなのか、5合目なのか、1合目なのかは違ってくる。たえずマルクスがいうように「全てを疑え」(=全ては疑いうる。自分で問いを立てて検証せよ)という視点で物事をとらえる必要がある。

コロナ対策でいえば、日本共産党が求めているPCR検査を社会的検査にまで広げるということと、和歌山県の対策の違いということがある。今の時点では、「赤旗」の記事にこの点についての言及はない。党は、さらに保健所におけるコロナ感染の徹底的追跡調査も要求している。これが和歌山県ではどうなっているのかということも、分析して評価しなければならない。つまり、赤旗を読んでも具体的問題として、現時点では、和歌山県の対策についての分析はなされていない。

地方議員として、この現状の下でどういう認識をもって前に進むのかが問われている。公表されている県の文書を読むと、PCR検査を社会的検査まで広げることはしていないが、感染者が発生したら、一気に広くPCR検査を行いつつ、濃厚接触者の対応も的確に行い、さらに徹底的な追跡調査を行っている。また、無症状者にたいする経過観察を徹底している中で、無症状者も全員入院させる必要があると判断している。この対応は、党が全国的なレベルで求めていることとかなりの親和性がある。これを自分で判断して、どこが優れているのかをつかんで対応する必要がある。

自分の頭でものを考えるというのは、腕組みをして考えをこねくり回すことではない。もっとアクティブな行為だ。体全体を通じて情報を集め、情報に基づいて考えることによって、考えを発展させるということの積み重ねだ。当然、この思考のプロセスの中で分析と総合、帰納と演繹が行われることになる。思考の仕方は、こういう行為を積み重ねることによって蓄積されてくる。蓄積は、物事を瞬間的に判断するときにも生きる。自分の頭で考える実践を積み重ねる中で事物の対するアプローチの仕方が、経験的に身についてくる。一定の蓄積ができれば、日常的に自分の頭で考える力が、自分の中に宿ることになる。

議員という職業は、真剣に議員の仕事と向き合うならば、こういう物事に対する姿勢を身につけられる職業だと思われる。せっかく人間として生まれたんだから、人間の持っている能力を縦横に発揮できる位置に立って生きられるのは、幸せなのではないだろうか。

日本共産党は、開かれた組織なので、新しい問題に対して、たえず豊かに最新の情報を吸収して、党のものにして考え方を発展させることのできる考え方をしている。ものの見方、考え方の根本には、マルクスとエンゲルスによって到達した弁証法と唯物論に基礎を置いた哲学がある。この哲学は、人類の叡智が変化し発展するに従って、それを自分のものにして発展しようとするものなので、体系だってはいるものの閉じられた哲学ではない。この体系的には閉じられていないものの見方、考え方を根底に据えている点が、日本共産党の研究方法だ。ここが面白いし、ここが優れていると思われる。せっかく、こういう開かれた体系をもった哲学を根底に据えているのだから、共産党の議員は、この哲学を学んで自分のものとして自分の活動に生かすべきだろう。物事の発展の歴史を学び、現状を分析し、それが今後どう発展していくのか。そういう力を持った哲学は、もっと実践的に生かされなければならない。そうしないともったいないだろう。

日本共産党の議員の活動上の幸福の一つはここにある。


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雑感

Posted by 東芝 弘明