融通無碍がいい

亡くなった北田通(かつらぎ町の議員)さんが、ぼくのことを「東芝君は融通無碍だから」と言ったことがある。言い得て妙だなと思った。融通無碍をあらめてGoo辞書で引いてみると
行動や考えが何の障害もなく、自由で伸び伸びしていること。▽「融通」は滞りなく通ること。「無礙」は妨げのないこと。「礙」は「碍」とも書く。
とあった。
真下信一さんの本を読んでいると、このぼくの融通無碍がどこから生まれているのか分かった。真下さんは、キリスト教の聖書も、儒教も孔子や老子の言葉にしても、自由自在に自分の本の中に取り込んで、科学的社会主義の正しさを証明するために語るということを繰り返していた。「キリスト教を批判したことはない」ということも書かれている。面白い。
自分の学びの中に、自由自在に学んだことを生かすという態度を20歳半ばから取り入れていた源泉は、真下信一さんの哲学の本から得たものだった。
科学的社会主義(科学的なものの見方、考え方の理論と言っていいだろう)の中にある哲学や経済学、階級闘争の理論、未来社会論、これらはすべて「人類の知識の総和」と呼ばれる努力の中から導き出されたものだ。この考え方からいえば、科学的社会主義を理解しようと思えば、世の中にあるありとあらゆる考え方に触れつつ、ものを考えることが求められる。それが、自由自在に取り込まれて、科学的社会主義の理論を豊かにするということだ。科学的社会主義の関係本だけ読んでいれば、科学的社会主義が理解できるというのは大いなる間違い。自分自身が、幅の広い学びを行いながら、自分の認識を豊かにすることなしには、科学的なものの見方、考え方は身につかない。
ぼく自身は、自然科学の数式については全く理解できないが、普及されているいろいろな科学の本を読むのは好きだ。何が面白かといえば、科学のさまざまな本は、エンゲルスのいう「自然科学は弁証法的総括を免れ得ないところまで来ている」ということを、具体的に、リアルに理解できるところにある。
脳科学の本を読んでいると、唯物論と弁証法の宝庫にであう。人間は脳だけで外界からの刺激に反応しているのではなく、皮膚からも、指先からも、腸からもさまざまな反応を受けて体全体で意識が形成されている。皮膚は色に反応しているという研究もある。腸は第2の脳だという研究もある。脳だけで物事を考えているのではなく、体全体が受けている外界からの刺激によって、意識が形成されている。
科学的社会主義の哲学の命題に「意識は客観的な意識の外にあるものからの反映として成り立っている」というのがある。脳科学は、この命題をより一層豊かに証明している。
さらに意識は人間だけに備わっているのではない。物質同士の相互作用の現象は自然界には溢れかえっている。相互作用は、一方の側から言えば外界からの反映でもある。意識の源泉は、無機物にも有機物にも存在する。植物の例を取ってみよう。
たとえば「チコちゃんに叱られる」。あるとき、この番組を見ていると、植物の話が紹介されていた。
植物は葉っぱを虫に食べられると、体に信号を発して美味しくない物質を葉っぱに出して、食べられないようにする植物もあることや、葉っぱなどがちぎられると、植物は、人間の耳には聞こえない周波数で「叫び声」を上げるのだという。
人間の意識と植物の「意識」には、深い親和性がある。これは「意識は客観的な意識の外にあるものからの反映」ということの証明でもある。
ぼくは、こういう学び方をしてきた。いろいろな本を読むと、必ずと言っていいほど、新たな発見があり、それは必ず科学的社会主義の命題と結びつく。根底には科学的な哲学があるというのは間違いない。真偽を見極めるのは難しいが、そういうことをおそれず、どんどん学んで迷いながら真理に到達すればいい。マルクスが研究の中で夢中になった自然科学の理論をエンゲルスが一蹴した話が残っている。1000年の歴史の中でダントツの偉人だったというマルクスでさえ、学びながら道に迷い込んだりしていたので、それは気にしなくていい。大切なのは、思い込みを排除して考えを改めることだろう。
融通無碍。これが真下信一さんの学ぶ姿勢だったのだと思う。この人の本に導かれて生きてきたことを、改めて発見し、自覚できたことは嬉しい。これからは、より一層こういう意識をもって学びたいと思う。



