ガバナンスと支配

雑感

決算委員会が開かれ、委員長報告について、委員で意見を出し合って委員長報告の作成ということになった。午後、確認された項目に基づいて文書を作成した。昨年よりもボリュームのある委員長報告になりそうだ。地方自治体の仕事の多くは、住民の暮らしを支えるものになっている。国が経済的な利害の対立によって、バトルを繰り返しているのとは様相が違う。したがって多くの施策は問題点があったとしても、肯定的に評価すべきものが多い。

問題を抱えているなかには、悪政が国から降りてくる点がある。法定受託事務と呼ばれるものの中には、問題を抱えるものも多い。法定受託事務だから致し方ないというのではなく、その事務の中で変更できない部分、変更できる部分というものがある。地方自治体は、地方分権の中で自治体と国・県は対等平等という原則をもっている。事務は自治的に行われる側面があるので、地方自治体が何をどう判断するのかが問われる。
地方自治体の歴史には、自治体の権限を行使して改善を図り、自治権を拡大してきた側面がある。
たとえば国民健康保険。保険料(税)の賦課権限は市町村にある。徴収や処分、減免、軽減の最終的な権限は市町村にある。もちろん、法律での縛りは存在する。法的な規定はどうしようもないが、制度はそれだけで終わらない。多くの場合、独自に実施できる側面が残る。このことを国はよく知っているので、一般会計から繰り入れて保険料(税)を軽減するかどうかは、市町村の判断ということになる。それは、たとえば県下統一の保険料(税)ということになっても変わらない。国が国民に負担を押しつけ、国民が苦しんでいる状況にあるのであれば、いったい、市町村に何ができるのかを考えて態度を決めることが求められる。こういう分野で努力をしないと、市町村は国の追認機関になってしまうともいえる。

国は違う。政治は経済的な対立の結果として存在している。財企業財界から資金を得て、この勢力のために政権を握って政治を実行してきた結果、日本は経済的に発展しない国になった。「失われた30年」は自然現象ではなく、自民党の政治の帰結だった。責任は政権与党にある。自分たちの決定を棚に上げて、日本を変えるとか自民党は生まれ変わるとか言っても、説得力はない。反省しないところに発展はない。自分たちが強行採決を繰り返して実行してきたことを、反省しないで変える、生まれ変わるというのは詭弁にすぎない。裏金=企業団体献金だ。使い道を全く明らかにしないで、反省したというのもない。

自民党の国会議員が地方に貢献した、和歌山県に貢献してくれたといっても、それはかなり部分的な話。国の政治にはハード面とソフト面がある。ハード面の改善は大事だが、戦後一貫してハード面を改善しても国民の暮らしは良くならなかった。ソフト面が悪すぎるのだ。ここ30年間、国民は苦しみ続けてきた。年間の実質賃金が74万円も減り、社会保障の負担増や消費税増税で国民生活を苦しめているのも政治。こっちの悪政を視野の外に置いて、和歌山県に貢献してくれたと言っても、何も問題は解決しない。ソフト面の政治の悪さを改善しなければ、国民の所得が下がり、格差と貧困が広がっている問題の解決はできない。

そのことを理解した上で、政治家を選ぶ必要がある。国民生活をどう改善するのかという国民主権の視点を失ったら、判断は狂う。主権は国民にある。主権者のために政治が行われているのかどうか。ここに全ての判断基準がある。この判断基準は、地方自治体の政治を見る場合も同じ。ガバナンス(統治)は、政治や行政が国民の信託を受けていることを忘れてはならない。ここを忘れると統治は支配に転化する。


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雑感

Posted by 東芝 弘明